映画に関するコラム集。映画を観る前に書いている場合もあります。
「ハッシュパピー バスタブ島の少女」
 2005年、アメリカ南東部を襲ったハリケーン「カトリーナ」は、アラバマ・ミシシッピ・ルイジアナ各州に甚大な被害を与え、特にルイジアナ州ニューオーリンズは市の8割が水没するという惨状だった。今回上映する映画「ハッシュパピー バスタブ島の少女」は、カトリーナを含め何度も自然災害に見舞われたこの地の記憶を下敷きにしている。
 6歳の少女ハッシュパピーにとって、“バスタブ島”での父親との暮らしは、貧しいけれども満ち足りたものだった。あるとき、島を百年に一度という大嵐が襲い、人々が大切にしていたものを根こそぎ奪い去ってしまう。そして島は水没の危機に瀕していた。そんなとき、粗野でたくましかったはずの父親が病に倒れ、余命幾ばくもないことを知る。父親は幼い娘に何とか自力で生きる力を身につけさせようとする。島では夢か幻か、気候の大変動により、氷河期を生きたといわれる動物オーロックスが復活してハッシュパピーの前に現れ、「お前をこの世界の王にしてやる。」と告げる。故郷が消失し、今や父親も失おうとしているとき、ハッシュパピーは父の教えを胸にこの島で生き抜くことを決意する・・。

 南部をこよなく愛する31歳の新鋭ベン・ザイトリン監督は、この地の特異な土地柄を背景に、誰もこれまで見たことのない独創的な物語を作り上げた。それは、人間の根源的な生命力に対する賛歌でもある。サンダンス映画祭グランプリ及び最優秀撮影賞受賞。

「天使の分け前」
 今回お贈りするのは、イギリス映画界の至宝と言われるケン・ローチ監督の最新作。イギリスでは失業中の若者が100万人を超えるという現実があり、これまでも「ケス」や「SWEET SIXTEEN」などの作品で厳しい現実から抜け出そうともがく若者たちをリアルに描いてきた社会派のケン・ローチ監督は、十羽一絡げに語られるそうした若者たちが、実際にはどういう連中なのか、どういう境遇に置かれてどういう気持ちで生きているのかに関心を寄せ続けてきました。そして、彼らに希望があるとすれば、それはどういう希望なのか、と。

 主人公のロビーは、貧困と暴力の過酷な子ども時代を過ごし、少年院に入っていたこともある。その後、聡明で魅力的な女性と知り合い、ふたりの間には子どもができるが、彼女の父親は結婚には猛反対している。職を転々としているロビーも、今の状況から抜け出さなければいけないと思っているが、そのためにどうすればいいのかわからない。彼は、暴力沙汰を起こした代償として社会奉仕活動に従事することになるが、そこで知り合った指導者のハリーによって、ウィスキーのテイスティング(利き酒)の才能があることを見出される。それをきっかけに、彼は奉仕活動で出会った仲間とともに、人生の活路を開くための大きな賭けに出る・・・。

 ロビーを演じた若者ポール・ブラニガンの実人生もまた、酒や暴力やドラッグと隣り合わせの、ロビーと同じような道のりだった。コミュニティー・センターの仕事をしているときに脚本を書いたポール・ラヴァティの取材を受け、それまでの生い立ちを語った彼は、人柄を見こまれて映画に出てみないかと誘われる。それも、演技経験のない身でいきなり主役として。彼にとってのハリーが、ポール・ラヴァティやケン・ローチだったのかもしれない。

 この映画に出演したことは彼にとって人生の転機だったかもしれないが、映画に出てロビーの人生を追体験することで、これまで自分の抱えていた問題点を整理することができ、地に足のついた心境になることができた。それが自分にとって何より大きかった、とポール・ブラニガンは語っている。彼はもう、確かな自分の人生を歩み始めている。

カンヌ映画祭審査員賞受賞。

「ハナ 奇跡の46日間」
 1991年4月、千葉県で開催された世界卓球選手権大会において、それまでライバル同士だった北朝鮮と韓国の選手が統一チームを結成し、中国など世界の強豪チームと戦ったという実話があるそうだ。その陰には、日本人で初めて国際卓球連盟の会長となった亡き荻村伊智朗という方の熱意と尽力があり、「南北統一チーム」が生まれたことは、南北融和の象徴として当時でも大きな注目を集めたそうだ。

 映画でも描かれているように、統一チームが出来ても、思想や価値観の違いから練習方法や選手構成をめぐる争いがあり、チームは何度も分裂しかける。しかし、この映画で主役となる両国のトップ選手ヒョン・ジョンファとリ・プニ選手は、あくまでもプロ意識に徹してチームを勝利に導くための牽引役を努め、選手たちも次第にお互いを理解し合うようになり、一丸となることができた。

 ヒョン・ジョンファを演じたのは、TV「チェオクの剣」で一躍有名になったハ・ジウォン、リ・プニには日本映画「空気人形」にも出演し、ハリウッド大作「クラウド・アトラス」など海外での活躍も目覚しいペ・ドゥナ。ふたりの選手の友情と絆が、この映画の要となっている。

 出演者たちは卓球選手になりきるため4ヶ月にわたる特訓を受けたが、1988年のソウルオリンピックで金メダルを獲得したヒョン・ジョンファ自身がこの映画のために卓球専属コーチを務めている。彼女の熱のこもった厳しいトレーニングが、この映画の卓球シーンをリアルで迫力あるものにしている。

「もうひとりのシェイクスピア」
 ウィリアム・シェイクスピアは1564年生まれと言うから、今から450年近く前の人。この前、高知市民劇場の例会で「ハムレット」を見せてもらったが、シェイクスピアの劇は時代と国を越えて、現在も世界中で上演されている。「ハムレット」を見て驚いたのは、バックダンスや音楽に意匠を凝らしたロック・オペラのような演出だったにも関わらず、ドラマの根幹が少しも揺らがないことだった。シンプルな筋立ての中に、運命の中で懊悩する人間の心理が深く彫りこまれていて、普遍性を感じさせる。

 この映画は、代表作である「ロミオとジュリエット」や「マクベス」「オセロ」を書いたのがシェイクスピアではなく、実は別人だったとする「シェイクスピア別人説」に基づく作品。もともとシェイクスピアの自筆原稿が残されていないがために、作者は別にいたのではないかとか、複数の作家によって使われた共有のペンネームだったのではないかという説が、文学史上論議されてきたらしい。それなら、それらの作品を書いた人物がなぜ実名を名乗れず、シェイクスピアの名前で発表しなければならなかったのかという謎を、16世紀エリザベス朝の王室の権力争いや謀略にからめてダイナミックに描き出している。監督は、「インディペンデンス・ディ」や「デイ・アフター・トゥマロー」など大作を得意とするローランド・エメリッヒ。歴史好き、ミステリー好きには興味の尽きない一作かもしれない。

「最終目的地」
 ジェームズ・アイヴォリーは、1980年代に「眺めのいい部屋」「モーリス」など文芸作品の名作を監督している。この時期には、「ベルリン 天使の詩」「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」などのヨーロッパ映画の秀作が単館形の映画館で次々と上映されてヒットを飛ばし、90年代にかけて、雨後の竹の子のごとく全国でミニ・シアターが作られるきっかけを生んだ。

 また、「眺めのいい部屋」や「モーリス」には、ジュリアン・サンズ、ダニエル・デル・ルイス、ヒュー・グラントなどのイギリスの若手美男俳優が多数出演していたため、映画雑誌が“英国の貴公子”という扱いで特集を組んで女性たちの人気を集めた。

 そのジェームズ・アイヴォリーの新作が今回上映する「最終目的地」。自殺した作家の自伝を書く許可を求めて、ウルグアイの遺族のもとを大学生オマーが訪れる。彼の出現によって、作家の妻、若い愛人、作家の兄など、周囲の人びとに様々な波紋を呼び起こす。それは、それぞれが先延ばしにしてきた自分の人生の“最終目的”を問われることでもあった。

 日本からこの作品に「ラストサムライ」以降海外での活躍が目立つ真田広之が出演している。同監督作品には「上海の伯爵夫人」に続いて2作目となるが、作家の兄をあの「羊たちの沈黙」の名優アンソニー・ホプキンスが演じており、真田はそのパートナーとして、寡黙で誠実なゲイの男を淡々と演じている。

「東ベルリンから来た女」
 ベルリンの壁崩壊の9年前のドイツ。バルト海沿岸の田舎町に女医バルバラが赴任して来る。かつて東ベルリンの大病院に勤務していたが、西側への移住申請を政府に却下され、左遷されてきたのだ。彼女には秘密警察の監視がついており、病院の同僚アンドレから寄せられる優しさにも、素直に応じることができない。しかし、バルバラは自由への渇望を決して諦めたわけではなく、西側の恋人の手引きによる“脱出”の日が刻々と近づきつつあった・・・。

 バルバラを演じるのは、ドイツ国内では有名だと言う女優ニーナ・ホス。チラシを見ると、右手に自転車に乗ったバルバラが、警戒するように後ろをふり返って見ている。左手には、何かの碑なのか墓なのか、大きな十字架が象徴的に配置されている。バルバラの大きな瞳と意志的に結ばれた口元が印象的だ。ひと目見ただけで、人を引きつけてやまない存在感がある。美しい女優、演技力のある俳優は幾らでもいるが、何も演技しなくても、役柄のパーソナリティを際立たせるような存在感を備えた女優というのはなかなかお目にかかれない。日本で言えば、草笛光子、岸恵子といったところか。彼女が最初に登場したシーンから、観客は息を詰めるようにしてその動向を見守ることになる。

 この映画は、ベルリン国際映画祭で監督賞を受賞しているが、ニーナ・ホスの存在を世界に知らしめたというだけでも、意義のある作品と言える。

「愛する人」
 今回上映する作品は、ノーベル賞作家ガルシア・マルケスの息子にして、映画監督のロドリゴ・ガルシアの代表作「愛する人」です。「彼女を見ればわかること」「美しい人」で一躍女性映画の名手となったガルシア監督の最高傑作とも言われています。

 十代の頃妊娠してしまったために、子どもとひき離され、今では老母の介護をしながら暮らす50代の女性と、弁護士としてキャリアを重ねながらも、幼くして養子に出されてしまった経験からか、養父母や恋人と深く関わることを避けながら生きてきた娘。お互いの消息を知らぬまま37年間を経てきた母と娘だったが、それぞれの身の上に起きた出来事が、二人の距離を近づけようとしていた・・・。

 「アメリカン・ビューティー」「華麗なる恋の舞台で」などの作品で数々の演技賞に輝くアネット・ベニング、今やハリウッドを代表する女優の一人となったナオミ・ワッツが、複雑な思いを抱きながら生きる母と娘を繊細に演じている。特にナオミ・ワッツの出演は、キャスティングの早い段階から決まっていたが、彼女が妊娠・出産を控えていたため、カムバックするまで完成を遅らせることにしたそうだ。彼女の体験が、作品にいい影響を与えてくれると信じたからだとロドリゴ監督は語っている。劇中でも娘エリザベスが妊娠するが、そのシーンを妊娠中のナオミ・ワッツがそのまま演じている。

「ふがいない僕は空を見た」
 高校生の卓巳は、付き合いで行ったコミック・イベントで“あんず”と名乗る里美と知り合い、アニメキャラクターのコスプレをして情事にふけるようになる。しかし、何者かによって二人の写真や動画が世間にばらまかれてしまう。実は、里美は姑から不妊治療や体外受精を強要されている主婦で、その重圧から家庭での居場所を失くしていた・・。

 映画のチラシのコピーに「僕らが前に踏み出せるのは、たった一言がきっかけだったりする。」と書かれている。ストレスを抱えて現実社会を生きていると、理不尽ながら虐げられている者が弱いものを抑圧したりすることが往々にしてある。また、人の犯した過ちに対してあまりに不寛容であったり、付けこんで足元をすくったりする出来事の何と多いことか。いったいどんな言葉が、卓巳や里美が歩みだす励ましとなるのだろうか。

 主演の田畑智子は、小学生の頃「お引越し」のオーディションで映画デビューした。どちらかと言うと清純でかわいらしい役柄の多かった彼女も、家庭の重圧から不倫に走る人妻を演じる年齢になった。大胆な性描写も相まって、本作は女優としての更なる成長を示す里程標となっているはず。

 2011年本屋大賞2位、第24回山本周五郎賞を受賞した窪美澄の原作を、「リンダ・リンダ・リンダ」「マイ・バック・ページ」の俊英向井康介が脚本、日本映画監督協会新人賞のタナダユキが監督。日本映画に新たな一石を投じる問題作。

「ソハの地下水道」
 今評判の映画「レ・ミゼラブル」の中で、主人公ジャン・バルジャンは市街戦で重傷を負った娘コゼットの恋人マリウスを背負ってパリの地下水道をさまよい、彼の命を救う。それは、マリウスが最愛の娘の愛する人であったからなのだが、もしそれが縁もゆかりもない人々であったとしたらどうだろうか。

 今回上映する映画の主人公ソハは、ジャン・バルジャンのような清廉潔白を志す人ではなく、仕事柄ポーランドの地下水道に精通しているというだけの下水道屋であり、あろうことか家族を養っていくためにコソ泥もしているという人物。彼は、第二次世界大戦下でナチスに迫害されているユダヤ人たちを勝手知ったる地下水道に匿うが、それは金目当てであり、金がなくなればいつでも警察に突き出せばいいと思っていた。

 しかし、ナチスのユダヤ人狩りの非道さを目の当たりにし、自分や家族の身も危うくなったとき、切迫した状況の中で彼自身も思いも寄らなかった行動に出る・・・。

 監督のアグニェシュカ・ホランドは女性だが、これまで「太陽と月に背いて」「敬愛なるベートーヴェン」など重厚な人間ドラマを作り続けてきた。彼女の師匠であるポーランドの名匠アンジェイ・ワイダには、「地下水道」という映画史上有名な作品があるが、来日してこの作品の邦題が「ソハの地下水道」(原題は「IN DARKNESS」)と付けられたことを知ったとき、喜んで師匠に電話したそうだ。アカデミー外国語映画賞ノミネート作品。

「かぞくのくに」
 70年代に“帰国事業”で北朝鮮に移住していた長男ソンホが、病気治療のため家族のもとに帰ってくる。在日の一家にとっては25年ぶりの再会だった。家族の絆を取り戻そうとする一家、兄を慕う妹リエ、ソンホが16歳だった頃の同級生も集まって来る。なかなか心を開くことのできないソンホには、北朝鮮の監視人もついていた。病院で検査を受けたソンホは、滞在期間の3ヶ月では治療できないと言われる。父親は、何とか滞在期間を延ばしてもらおうと申請し、リエは別の病院を探すために奔走する・・・。

 帰国事業とは、1959年から84年まで続いた北朝鮮への集団移住事業。その頃北朝鮮を“地上の楽園”としたPRやマスコミ報道によって、日本社会で差別や貧困に苦しんでいた9万人以上の在日コリアンが移住した。この映画の監督ヤン・ヨンヒの父親も朝鮮総連の幹部として事業に関わり、実際に息子3人が移住している。これまでヤン・ヨンヒはそうした自分の家族のことを「ディア・ピョンヤン」「愛しのソナ」などのドキュメンタリーで赤裸々に描いてきたが、ドキュメンタリーでは描ききれなかった想いがこの胸を打つ長編ドラマとして結実した。

 在日や日本と北朝鮮の問題だけではなく、この映画は、個人と国家との関係、自由とは何なのか、家族とは何かを、私たちに問いかけてくる普遍性を持っている。

 2012年キネマ旬報邦画ベストワン。主演の安藤サクラは、この映画で同主演女優賞を受賞している。

「オレンジと太陽」
 偉大な父を持つというのはどんな気分だろう。この作品の監督ジム・ローチの父親は、イギリス映画界の至宝と形容されることの多い名匠ケン・ローチ。「ケス」や「麦の穂を揺らす風」などの代表作を持ち、常に庶民や弱者の立場に立ちながら社会性の強い作品を作り続け、世界中の多くの映画人から敬愛されている。

 ジム・ローチは最初ジャーナリストをめざしていたらしいが、テレビのドキュメンタリー番組の仕事を経て、TVドラマを手がけるようになり、本作が長編劇映画デビュー作となる。映画の内容を考えると、社会的問題への深い洞察や、弱者への優しい眼差しは父からしっかりと受け継がれているようだ。

 イギリスのノッティンガムでソーシャルワーカーとして働くマーガレットは、ある日見も知らぬ女性シャーロットから「私が誰なのか調べて欲しい」と訴えられる。幼い頃、施設に預けられていた彼女は、4歳のときにたくさんの子供たちとともに船でオーストラリアへ送られ、自分がどこの生まれなのか、母親がどこにいるのかも判らないという。調査を始めたマーガレットはやがて、シャーロットのような子供たちが数千人にものぼり、中には親は死んだという偽りを信じて船に乗った子供たちもいたこと、そうした強制的な“児童移民”が密かに政府主導で行われていたことを知る。

 この物語はマーガレット・ハンフリーズの著書「からのゆりかご‐大英帝国の迷い子たち」を原作とする実話であり、マーガレットは“児童移民“によって海を渡った人々の家族を粘り強く探し出し、数千の家族を再び結び合わせている。

 ジム・ローチは、父のビッグネームに負けることなく、歴史に埋もれた真実に光をあて、胸に迫る感動作を生み出した。  

「ジェーン・エア」
 世界文学の名作「ジェーン・エア」はこれまで何度も映画やテレビで映像化されてきた。中でも、1944年にジョーン・フォンティーンとオーソン・ウェルズの共演で作られたロバート・スティーヴンソン監督の「ジェーン・エア」が特筆すべきものかもしれない。しかし、96分のこの作品は、オーソン・ウェルズはロチェスター卿のイメージに近かったものの、原作のダイジェストの観はいなめず、原作の後半はほとんど割愛されていた。

 新作「ジェーン・エア」のヒロインに抜擢されたのは「アリス・イン・ワンダーランド」のミア・ワシコウスカ。ジョーン・フォンティーンほど美貌ではないが、実年齢でジェーンに近いこともあって、恋に揺れ動く十代の娘の心情を繊細に演じている。ただし、ロチェスター役のマイケル・ファスベンダーはあまりにハンサムすぎる嫌いはある。

 監督を務めたのは、「闇の列車、光の旅」で鮮烈デビューを果たし、サンダンス映画祭監督賞を受賞した日系アメリカ人キャリー・ジョージ・フクナガ。この古典的名作を、自立的で自由な魂を持った者同士が、身分や境遇の違いを越えて惹かれあうという、現代的で清新なドラマとして作り上げた。時制の前後するところはあるが、原作に忠実でそのエッセンスを最も良く伝えた「ジェーン・エア」の決定版と言える作品。

11月30日(金)、県民文化ホールにて。午後3時、7時より。5時20分より神戸大学大学院国際文化学研究科教授坂本千代氏の「19世紀ヨーロッパの女性と職業〜なぜジェーンは教師に、シャーロットは作家になったのか〜」と題する講演があり、作品への理解を深めてくれる。

「汽車はふたたび故郷へ」
 今回上映するのは、グルジア出身の監督オタール・イオセリアーニの新作。自分の作りたい映画を作ろうと悪戦苦闘する若者の、寓意に満ちた物語。牧歌的な少年時代を過ごした主人公ニコは、グルジアで映画監督をしているが、ソ連の一共和国だった時代で、暴力的な検閲や思想統制が横行し、思うように映画を作ることができない。意を決してニコはフランスに旅立つが、そこでは商業主義が幅をきかせ、金儲け主義のプロデューサーのために彼の映画作りはまたまた苦難の連続。一体どうすれば、本当に自分の作りたい映画が作れるようになるのか?

 オタール・イオセリアーニの実人生も、まさに同様だったようで、グルジアで作った初期の映画は、体制批判的と見なされ次々と上映禁止となる憂き目にあっている。45歳のとき、グルジアを出てパリに活動の拠点を移して、「すてきな歌と舟はゆく」や「月曜日に乾杯!」、「ここに幸あり」など世界の映画祭で話題になった代表作を生み出している。

 彼の作品には、リリシズムと現実へのシニカルな洞察、ユーモアと批判精神が同居している。そして、シリアスな現実に風穴をあけるかのように、幻想的なシーンが登場する。この映画について、イオセリアーニ自身はこう語っている。「これは、僕と、僕の同僚たちの物語。つらい経験をおくりながらも、口笛を吹いてそこから抜け出てきた人たちの物語。」そこには、イオセリアーニの飄々とした人生観がこめられている

「ポエトリー アグネスの詩」
 韓国映画界の中でも、イ・チャンドン監督の占める位置は特異なものに違いない。暴力社会の底辺であがくチンピラの哀切な恋を描いた「グリーンフィッシュ」で1997年にに鮮烈デビューして以来、人間に対する深い洞察力で、破滅に向かう男の暗い情念を描いた「ペパーミント・キャンディー」、重度障害者の恋を描いた「オアシス」、誘拐事件によって息子を失った女性の絶望と再生を描いた「シークレット・サンシャイン」など、いわゆる韓流と呼ばれる作品群とは異なる立ち位置で、純文学のような作品を生み出し続けている。一時は映画を離れ、政府の文化観光部長官として、韓国における日本文化の開放を含む様々な文化政策に尽力した。国内で製作された映画の上映日数やスクリーン数を確保するスクリーンクォーター制の導入によって、韓国映画の育成を図ったりしている。

 本作では、詩作教室に通い始めた初老の女性ミジャが、自らのアルツハイマーの発症や、孫が加害者の一人として関わっていた女子中学生のいじめ自殺事件という厳しい現実に直面する中で、詩作を通して自分の内面を見つめる姿を描いている。

 イ・チャンドンの映画は、過酷な運命の中で懸命に生きる人々を通して、人生の光と影、美しさと醜さ、善良さと邪悪さの混在を圧倒的なリアリズムで描き出す。誰も真似のできない、誰の作品にも似ていない映画を作り続ける孤高の作家だ。カンヌ映画祭脚本賞受賞。

「天国の日々」
 シネマ・サンライズでは、第150回記念例会としてテレンス・マリック監督の代表作「天国の日々」を上映します。

 テレンス・マリックは非常に寡作の作家で、70年代に第1作「地獄の逃避行」を作り、「天国の日々」でカンヌ映画祭監督賞を受賞した後、20年間映画界から遠ざかり、伝説の作家と呼ばれていました。その後、98年に「シン・レッド・ライン」でベルリン映画祭金熊賞を受賞し、昨年の「ツリー・オブ・ライフ」でカンヌ映画祭パルムドールを受賞したのは記憶に新しい。もともと大学の哲学の講師で、その思索的な作風を見ると、映画を自らの哲学を盛る器と考えている節があります。20年間のブランクの間は、フランスの大学で教鞭を取っていたそうです。

 舞台は1910年代のテキサス。シカゴから流れて来た季節労働者のビリーと恋人のアビー。病のため余命幾ばくもない農場主のチャックは、ビリーの妹を装うアビーを見初め求婚する。ビリーの目論見どおりに行けば、土地も財産も手に入れられるはずだったが、やがて悲劇が起こる・・・。

 タイム誌が70年代のベストテンに選出した映画の中の映画。特に、<マジックアワー>と呼ばれる日没後の残照によって撮影された光景を含め、撮影のネストール・アルメンドロス、ハスケル・ウエクスラーのカメラは奇跡のように美しい。ぜひ、スクリーンでのご鑑賞をお奨めします。

ウィンターズ・ボーン その2」
 そんなに感銘を受けた作品というわけではない。どちらかと言えば地味で渋い作品。それなのに、見終わった後、17歳の主人公リーと、彼女が関わった犯罪者一家の女たちのことが何度となく思い起こされて、心の片隅に住みついてしまったかのようだった。それだけ彼女たちの存在がリアルで生々しかったからだ。(この後、ネタバレ注意。)

 この映画には、ふたつの点で心を打たれた。家を保釈金の担保にして失踪した父親の行方を追って、リーは地元を支配するミルトン一家を訪ねる。一族の長老であり、父親が手がけていた麻薬製造の元締めと思われる一族の長サンプに会おうとして、リーは一族の女たちから暴行を受ける。しかし、終盤、リーはこの女たちに連れられて父親の死体の隠し場所に行き、女たちが切り取った父親の両手首を持ち帰ることになる。それを警察に差し出すことで、父親の死亡が推定され、おそらくリーたちは家を立ち退かなくても構わないようになるだろう。

 それでは、なぜリーに暴行を加えた女たちが、とんでもない方法で、最後にリーを助けるのか? それは、こういうことではなかったか。女たちにとってリーに父親の死のことを知られてはならない。夫や家族が犯罪者である女たちもまた、犯罪に加担しているも同然であり、犯罪で得た金で暮らしている。今の生活を守るためには、夫や家族が警察に捕まっては困る。かと言って、家族を守るために、特に幼い弟や妹のために父親を見つけ出さなければならないというリーの苦境はわかる。リーのしていることが、自分のためではなく家族のためであることもわかっている。一族の間では、目障りなリーを始末してしまえという意見も出ていたらしい。女たちが、「私たちに任せて。」とリーに暴行を加えるのは、男たちにやらせればリーを片輪(失礼。差別的表現だが、他に適当な言葉が見当たらない。)にさせられるか、殺されてしまうからだ。そうさせないために、女たちは「自分たちでやる。」と宣言している。もちろん、暴行することによってリーが父親のことを諦めれば、問題はなくなるのでそれに越したことはない。

 しかし、リーが決して諦めないとわかったとき、一族が父親の死に関与していることが発覚する危険を冒してまで、女たちはリーに父親の手首を持ち帰らせる。それは犯罪の世界に首までつかって生きる女たちのぎりぎりの選択であり、同じ女としての“筋の通し方”だったと、後から気づかされた。

 もうひとつ感銘を受けたのは、リーが家計を助けるために軍隊に応募してきたときの担当官の態度だった。不景気な田舎で兵隊を募集しているのは、貧困層の応募をあてこんでのことだが、応募者に給付金の出る期間は限られているらしい。軍隊に志願することで、救われる家庭もある一方で、破綻していく家庭もあることを、担当者はこれまでの経験から知っているのだろう。リーの家庭の事情を聞いた後で、彼はリーに「兵隊になるよりも、君は家族のためにここに留まる覚悟を決めるべきだ。」と諭す。つまり、他に希望を求めるより、君自身が家族の希望になれ、と言っているのだ。それは、17歳の少女にとって厳しいハードルの高さだが、リーの家族が救われるためには、まさにそういう方向しかないだろう。リーが家族から離れれば、一時的に金が残ったところで、家族はたちまち崩壊してしまう。面接のプロである担当官は、それを短い面談の間に察知して、彼女に的確なアドバイスを与えている。その洞察力に唸らされた。

 この映画は、監督が女性であることもあろうが、女性たちの目線で描かれたハードボイルド映画と言える。リーを窮地から救いに来る伯父のディアドロップは別格として、男たちはほとんどこの作品では傍系人物と言える。

 リーに、車で州境まで送ってと頼まれながら、車を持つ夫の意向を受けて断らざるをえなかった友人ゲイルは、後でリーを尋ねてきて車に乗れと言う。リーが、「旦那の方はいいの?」と尋ねると、“くそくらえ”という意味のことを言う。昔のダチ公との友情の復活だ。やはりこの映画は、それぞれの置かれた境遇は厳しくても、女性の心意気と“筋の通し方”を描いた映画なのだ。 

ヒマラヤ 運命の山
 山登りには全く縁がなかったのだが、日本人に生まれたからには一度は冨士山に登ってみたいという気持ちから、昨年の夏、冨士登山ツアーに参加した。五合目までバスで行き、八合目付近の山小屋で仮眠をとって再び深夜から歩き始め、山頂でご来光を見るという行程だった。それが、五合目を出発してすぐにひどい高山病になってしまい、頭は重くなるし吐き気はするし、火山岩のごろごろする山肌は急峻で、足を前に出すのもやっとという状態になってしまった。必死で何とか山頂にはたどり着いたものの、極度の疲労と寒気で、山頂から見る景色などもうどうでもよくなっていた。

 今回上映する「ヒマラヤ 運命の山」は、世界の八千メートル級の山を十四峰登頂した実在の超人ラインホルト・メスナーの物語。若き登山家として名を馳せていたメスナーは、弟のギュンターとともにヒマラヤ遠征隊に参加する。二人は悪戦苦闘の末、子どもの頃から夢だった“裸の山”と呼ばれるナンガ・パルバートのルパール壁の登攀に成功するが、下山の際、突然の悲劇が弟を襲う・・・。

 ラインホルト・メスナー自身もアドバイザーとして映画製作に参加し、当時のメモをもとに登攀の際のテントや服装などが忠実に再現されていると言う。実際にナンガ・パルバート等高所でロケした撮影、哀愁を帯びた美しい音楽が素晴らしい。登山発祥の地、ドイツの生んだ山岳映画の決定版と言える。

ウィンターズ・ボーン その1」
 今回上映する「ウィンターズ・ボーン」は、アメリカの片田舎、貧しい境遇の中で苦境に立たされる17歳の少女を描いた作品です。

 母親は精神疾患を患い、弟や妹の面倒をみていたリーは、逮捕されていた父親が保釈金のため家を抵当に入れたまま失踪したため、1週間以内に家を立ち退かなければならなくなります。困ったリーは、失踪した父親を捜そうとするのですが、親族はいずれも非協力的で、あまつさえ彼女を妨害しようとします。彼女が生きているのは、大人たちが援助の手を差し伸べてくれない世界であり、逆にすさんだ大人たちによって子供たちが食いものにされかねない世界です。アメリカの片田舎、底辺で生きる大人たちの抱えている闇はあまりに深く、アメリカ社会の抱えている闇を体現するかのようです。その渦中にあって、自分たちの生活を守り、幼い妹や弟を守るため、彼女は不安と孤独の中、一人で戦わなければなりません。傷つきながらも、自分の運命に立ち向かおうとするリーの姿は、勇敢であり凛々しくもあります。

 主演のジェニファー・ローレンスは、「あの日、欲望の大地」でシャーリーズ・セロン、キム・ベイシンガーと共演し、マルチェロ・マストロヤンニ賞(最優秀若手女優賞)を受賞した実力派。本作の主演によりアカデミー主演女優賞にもノミネートされ、これからの成長が楽しみな大型女優の一人です。

 本年度屈指の1本を、ぜひスクリーンでご覧下さい。

ペーパーバード 幸せは翼にのって
 映画の上映会を長くやっていると、上映する作品は映画を見てから決めているのですか、とよく聞かれます。無責任かもしれませんが、スクリーンで見られる機会のある作品を、あえてDVDでは見たくないものですから、既にソフトが出ていても事前に見ることはしません。もともとスクリーンサイズで作られているものを、テレビサイズで観るのは作品への冒涜のように感じるからです。

 その代わり、映画の選択においてはいつもアンテナを張り巡らしています。インターネットでは、全国の信頼できるミニシアターの上映ラインナップを見ることができますし、実際に映画を見た一般の人の感想もネット上でいくらでも紹介されています。雑誌や新聞の映画評も参考にしますし、「ぴあ」からはワンシーズンに1回、向こう一年間に上映される映画をまとめたムック本が出ています。

 それらを見たり、読んだり、プリントアウトしたりして、ためつすがめつ眺めています。そして、上映候補作品のファイルに、優先順位をつけて綴じておいて、最優先の作品から配給会社に交渉しているという次第。今回上映する作品も、そうして浮上してきた一篇です。

 時代は、第一次世界大戦と第二次世界大戦の狭間、内戦の頃のスペイン。主人公の喜劇役者ホルヘは、爆撃で妻と子を同時に失い、悲しみのあまり一年間行方をくらませていた。終戦後、相方のエンリケと再会した彼は、孤児のミゲルとともに3人で暮らすことになるが、失意は晴れない。最初は、亡くした息子と同じ年頃のミゲルに冷たくあたっていたホルヘだったが、劇団の仲間とともに巡業を繰り返すうちに、自分を父親のように慕うミゲルと強い絆で結ばれるようになる・・・。

 スペイン映画のテイストは、イタリアやフランス映画とどう違っているのか楽しみだ。モントリオール映画祭観客賞受賞。

ラビット・ホール
 精神医学の大家フロイトは、愛する者を喪失したことによって生じる悲しみや苦しみを乗り越えていく心のプロセスを「喪の仕事」と名づけた。人間は、時がたてば自然に失った対象のことを忘れてしまうのではなく、様々な感情体験を繰り返し、悲しみと苦痛の心的過程を経て初めて、喪失した対象に対する断念と受容の気持ちを持つことができるそうだ。

 「ラビット・ホール」に登場する一組の夫婦は、最近交通事故で幼い息子ダニーを亡くしたばかり。ダニーは、開け放した門扉から飛び出した犬を追いかけて、車にはねられてしまったのだ。息子を亡くした悲しみや辛さは同じだが、息子の死に対するふたりの態度は全く異なっていた。妻ベッカは、ダニーの想い出から逃げ、ダニーから遠ざかろうとするが、夫ハウイーはいつまでもダニーの面影を追いかけ、想い出に浸ろうとする。想い出の品を処分してしまおうとする妻と、いつまでも残しておきたい夫との関係は、次第にぎくしゃくしたものになる。そんなとき、ベッカは息子を車ではねた少年を偶然見かけ、その後を追う・・・。

 昨年3月、東日本大震災により日本中が大きな悲しみに包まれた。東北は復興への長い道のりを歩みだしたが、外見上の復興とは別に、家族や友人、家や仕事、そして故郷までも失った大勢の人々の心の中で、それぞれの時間をかけて「喪の仕事」が行われていることを私たちは忘れてはならないと思う。

 この映画で、アカデミー賞とゴールデングローブ賞主演女優賞にノミネートされたニコール・キッドマンは、子どもを亡くしたばかりの母親の複雑な心境を繊細に演じている。

家族の庭
 その国の映画界を代表するような監督でありながら、メジャーではないために日本ではあまり映画が上映されず、認知度も低いという監督がときどきいます。「家族の庭」のイギリス映画の重鎮マイク・リーもまさにそういう人。「秘密と嘘」でカンヌ映画祭のパルムドールを、「ヴェラ・ドレイク」でベネチア映画祭金獅子賞を受賞しているにもかかわらず、彼の作品は日本の地方都市ではほとんど劇場公開されることはありません。アカデミー賞のような一般性のある賞ではなく、外国の映画祭で賞を取るような作品は、小難しく娯楽性に乏しいと、興行にはむしろ敬遠される場合が多いからです。

 マイク・リーの映画作りのプロセスは、通常のやり方とは随分違っている。物語の筋立てはあってもあらかじめ決まった台本はなく、俳優たちに即興で演技をさせながらストーリーやセリフを作り上げていく。それはつまり、キャラクターという鋳型を用意してそれに基づいて人物を動かすのではなく、他者との関わりによる感情的な揺れや曖昧さ、時には感情を自分でコントロールできない状態なども含めてキャラクターを作り上げていくということで、リアルさの基盤が全く違ったものになってくる。マイク・リーの描き出す人間があまりにリアルなのは、用意されたドラマから映画が立ち上がってくるのではなく、俳優たちの生きた演技から立ち上がるドラマをすくい取ることで映画が成り立っているから。

 「家族の庭」は、仕事と庭園を持ち、誰もがうらやむ落ち着いた暮らしをしている老夫婦と、彼らを訪ねる様々な悩みや孤独をかかえた親戚や友人たちとの交流を、四季の移ろいを背景に描き出した作品。マイク・リーの人間観察は、ときに辛辣で奥深く、怒りや悲しみや嫉妬など人間の負の側面も容赦なく描き出します。それでいて、冷たく突き放している気がしないのは、登場人物ひとりひとりの心情に寄り添い、どんな人生にも価値のあることを見据えているからでしょう。

素晴らしい一日
 相変わらずの韓流ブームに便乗して、というわけではありませんが、現代韓国映画の秀作「素晴らしい一日」を上映します。「八月のクリスマス」のように韓国映画が日本でリメイクされたり、「悲夢」のオダギリジョーのように日本の俳優が韓国映画に出演したり、日韓の文化交流はますます盛んですが、本作もまた、日本人作家平安寿子さんの同名の短編小説を韓国で映画化したもの。

 出演は、主人公ヒスを、「シークレット・サンシャイン」でカンヌ映画祭主演女優賞を受賞した演技派チョン・ドヨンが、風采はあがらないが憎めない元カレのビョンウンを「チェイサー」の連続猟奇犯を演じて世界中を驚かせたハ・ジョンウが演じている。ふたりの演技については、原作者も「こんなに素敵に演じてくれて、原作者冥利に尽きる。」と絶賛しています。

 恋人もおらず、失業してしまったヒスは、別れた男ビョンウンから貸した金を取り立てることを思いつき、競馬場にやって来る。しかし、相変わらず甲斐性のないビョンウンに返せる金などなく、ちゃんと返すと約束するが、ヒスには信用できない。結局、ヒスは彼女に金を返すため昔の女たちから借金して回るビョンウンに付き合うことになる。それは、ヒスの知らなかったビョンウンの女たちに出会う旅であり、ビョンウンの知らない側面に出会う旅でもあった・・・。

 もし、この作品を日本で映画にしていたらどうなっていたろう? ヒスは、麻生久美子にちょっとぎすぎすした感じで演じてもらい、ビョンウンは、妻夫木聡あたりによれよれの服を着せて無精ひげをはやして演じてもらおうか。監督は「酒井家のしあわせ」「オカンの嫁入り」の呉美保なら、リアルで生活感のある作品になるはず・・・。こんな妄想を巡らせるのも、映画の楽しみ方のひとつ?

君を想って海をゆく
 昨年、日本各地のミニ・シアターで上映されながら、フィルムの本数の少なさからこれまで高知では上映されなかった現代フランス映画の秀作「君を想って海をゆく」を上映します。

 本作は、フランスにおける難民問題を扱った社会性の高い作品であり、同時に心の離れてしまった夫婦の愛情の問題や、親子ほども年の離れた異人種同士の交流を描いた感動作でもあります。また、作品のプロモーションの中で、フイリップ・リオレ監督が難民の手助けをするだけで市民が警察の尋問の対象となることに怒りを表明し、そうした状況をドイツ占領下のフランスの忌まわしい歴史と比較したため、エリック・ベッソン移民担当大臣を巻き込んだ論争に発展しました。大臣がテレビで監督のコメントに対し不快感を表明し、監督が反論の書簡を新聞紙上に公開したそうです。 

 日本は、2010年9月、母国に戻ることのできないミャンマー難民を“第三国定住”としてアジアで初めて受け入れることを表明しています。これまで“鎖国”と国際的な批判を受けていた日本も、今後難民問題に貢献することを明らかにしました。これからの難民問題、外国人との交流の問題を考えるとき、本作は道義的な意味で非常に示唆に富んだ作品と言えます。

 フランス最北端に位置し、ドーバー海峡を挟んでイギリスを臨む都市、カレ。クルド難民の少年ビラルは、イラクから歩いてこの港町にたどりついた。彼の目指す地は、愛する人が暮らし、明るい未来が待つと信じる対岸のイギリスだが、現実は厳しく、そう容易に越境できる術もない。しかし、ビラルは諦めなかった。30数キロ先の向こう岸へ行けるならどんな手段もいとわないと、遂に泳いで海峡を渡ることを計画する。

 片や、かつては水泳選手として名を馳せたものの、今ではコーチの職に甘んじ、妻とは別居中のシモン。出会うことのなかった二人が市民プールで出会い、物語が動き出す・・。

127時間
 仕事や暮らしの中で、心理的にきつい状況というのは誰もが何度も経験することと思いますが、生死を分かつような命がけの経験にはできるだけ遭遇したくないものです。この映画の主人公は、慣れ親しんだはずの日常の中で、突然、極限状況を体験することになります。 

 アウトドア・スポーツを楽しみながら自由気ままに生きてきたアーロンは、ある日、ロッククライミングの途中で落石にあい、身動きできない状態に陥ってしまう。そこは、誰一人いない岩山の奥深くであり、行き先も告げずに来たので救援も望めない。ナップザックの食糧は底をつき、水も残り少なくなる。このままでは衰弱死を待つばかりだ。

 極限状態に置かれたアーロンの心に、これまでの人生の様々な場面が走馬燈のように去来する。タフで陽気でクールであることを気取って生きてきた自分の人生。そのライフ・スタイルのゆえに、誰にも本当には心を開くことはなかった。彼は、自分が取りこぼしてきたもの、見失っていたものの大きさに初めて気がつく。

 ”もう一度人生をやりなおしたい“”自分の愛する人々と絆を回復したい“と切望した彼は、勇気ある決断をする。

 映画は、原作者アーロン・ラルストンの実話に基づく。監督は、「スラムドッグ&ミリオネア」でアカデミー賞8部門に輝いたダニー・ボイル。「トレインスボッティング」でアイルランドの青年のジャンキーな青春をポップに描いた彼の作風は、一作一作進化している。映画を知りつくした彼の、自由闊達なストーリー・テリングが魅力。

 主演は、スパイダーマン・シリーズでスパイダーマンの友人でもあり、彼を父の仇と狙うハリーを演じて世界中から注目されたジェームズ・フランコ。近作「猿の惑星 創世記」でも好演しているが、本作はまぎれもなく彼の代表作となった。

誰がため
 十代の頃、リノ・バンチュラ主演の「影の軍隊」という、ナチス占領下のフランスにおけるレジスタンスを描いた映画を観て、少なからず心を動かされた。監督も抵抗運動に加わっていたという人で、静かで地味な映画だったが、極限状況下でも自分の矜持を持って活動する人物たちにストイックな魅力を感じた。

 「影の軍隊」では、ゲシュタポに捕らえられて、拷問などによって同胞を裏切った者が、解放された後、仲間から処刑されるエピソードが何度か登場する。今回上映する「誰がため」では、同じくナチス占領下のデンマークにおけるレジスタンスの中で、個人の裏切りに対する処断を描きながら、自分たちに指令を下す組織そのものへの不審や疑惑といったものも描き出される。

 地下組織の一員である、暗号名フラメン〈炎〉とシトロン〈レモン〉と呼ばれる二人の任務は、ゲシュタポやナチに寝返った同国人を抹殺することだった。暗殺者となることに抵抗と不安を感じながらも、二人は自分たちの信念のもとに任務を遂行していく。しかし、ある標的と対峙したとき、“何かがおかしい”と暗殺をためらってしまう。自分たちがしていることは、本当に正しいのか? ただ利用されているだけではないのか? 疑心暗鬼に苛まれるなか、ゲシュタポの追求は熾烈さを増し、二人は次第に危険な状況に追いこまれてゆく・・・。

 フラメンとシトロンは実在した人物らしい。デンマークの王国公文書館が持っていた資料が戦後60年以上経って公開され、戦時秘話とも言うべき二人の存在が日の目を見ることになった。この映画の公開に際し、デンマーク国立のレジスタンス博物館では、彼らを中心とするレジスタンス特集の展示が行われ、話題になったとのこと。

太陽の雫
 テレビでは、大河ドラマが大はやりですが、昨今の映画の世界では大河ドラマと言える作品はめっきり少なくなりました。現在、高知のシネコンで上映されている“午前十時の映画祭”のラインナップを見ると、「ドクトル・ジバゴ」「風と共に去りぬ」「ゴッドファーザーPARTU」などがこれに当たると思われます。「太陽の雫」は、「山猫」や「1900年」などのヨーロッパ作品に続く大河ドラマと評されていますが、「風と共に去りぬ」を除いていずれも60年代70年代の作品であり、なかなか大河ドラマと呼べるような風格を備えた映画は出てこないことが伺われます。

 以前、京都の国立近代美術館でピカソ展を見たとき、ピカソという作家の青年時代から晩年まで生涯にわたる作品を一望できるのは、何と贅沢なことだろうと感じましたが、大河ドラマにもそういうことが言えると思います。大河ドラマの神髄は、人間の人生が俯瞰できること、大きな歴史的出来事の全体像がわかることではないでしょうか。私たちの生活は、そのときそのときの短い現在をつなげることで成り立っていますが、現在につながる過去、未来に向かう現在という大きな時間の連なりを感得することはなかなか出来ません。それをパノラマのように一挙に見せてくれるのが大河ドラマの醍醐味ではないでしょうか。

 19世紀末のハンガリー、ユダヤ系のゾネンシャイン一族は、「サンシャインの味」という秘伝の薬草酒で莫大な富を築いていた。永遠に続くかと思われたその栄華は、20世紀の激動の嵐に翻弄される。イヴァン・ゾネンシャインを主人公に、彼の語る祖父イグナツ、父アダム、そしてイヴァン自身の物語が、ハンガリーの100年の歴史とともに語られる。

 出演は、ゾネンシャインの性格の違う3代の男たちを的確に演じ分けたレイフ・ファインズ、「蜘蛛女のキス」でアカデミー賞・カンヌ映画祭主演男優賞に輝いたウィリアム・ハート、「スターリングラード」のレイチェル・ワイズなど実力派が競演している。

100歳の少年と12通の手紙
 病気のため余命宣告をされた10歳の少年オスカーは、ふとしたきっかけから口の悪いデリバリーピザの女店主ローズと、病院内で知り合う。彼のたっての希望により、ローズはピザの宅配を条件に大晦日までの12日間、毎日彼の元を訪れる約束を病院長とする。オスカーが彼女を気に入ったのは、腫れものにさわるような周囲の大人たちの態度とは逆に、ローズがごく普通に自分に接してくれるからだった。ローズは、残された時間の少ないオスカーに、1日を10年間と考えて過ごすこと、また、毎日神様に手紙を書くことを提案する・・・。

 監督のエリック=エマニュエル・シュミットは、もともとはフランスの有名な劇作家だそうです。往年の映画ファンにとって嬉しいことに、彼は1997年にアラン・ドロンの舞台復帰作「謎の変奏曲」を書いており、その後、ドロンのライバルだったジャン=ポール・ベルモンドから乞われて「フレデリック、または犯罪大通り」という戯曲を書き、いずれの舞台も成功させています。また、彼が原作を書き脚本も書いた映画「イブラヒムおじさんとコーランの花たち」では、引退していたオマー・シャリフを復帰させ、その存在感のある演技でセザール賞主演男優賞をもたらしています。

 本作においても、今なお現役で活躍している名優マックス・フォン・シドーが病院長として脇を固めていますし、悪女役の多かったミレーヌ・ドモンジョも出演しています。そして音楽は、映画音楽の名匠ミシェル・ルグラン。

 初監督作品だった「地上5センチの恋心」を含め、この監督に共通しているのは、いずれも人生の愛しかた、人生との折り合いの付け方を示唆してくれる内容だと言うことです。たとえ平凡であっても、あるいは最悪と思われる人生であっても、見方を変えることで人生は可能性に満ちた豊かなものに変貌する―そんなメッセージを届けてくれます。

テンペスト
 今回上映するのは、シェイクスピアが最後に残した作品「テンペスト」を、ミュージカル「ライオンキング」の天才演出家ジュリー・ティモアが映画化した作品。もともと演劇からキャリアをスタートさせた彼女は、30代半ばにして、オフ・ブロードウェイで「テンペスト」を演出しており、映画監督となった最初の作品もシェイクスピアの「タイタス・アンドロニカス」を映画化した「タイタス」だった。演劇にしろ映画にしろ、およそドラマを演出しようとする者にとって、愛憎や欲望など人間の業の渦巻くシェイクスピア作品は、試金石として立ち現れてくるものらしい。

 この映画の見所は三つある。ひとつは、何と言っても主人公のプロスペラ(映画では、追放された元ミラノ大公プロスペローは女性になっている。)を演じるのが、英国を代表する名女優であり、映画「クィーン」でエリザベス女王を演じて絶賛されたヘレン・ミレンであること。彼女の風格ある演技を堪能できる。次に、ジュリー・ティモアが「ライオンキング」で試みた様な意匠を凝らした奇抜なビジュアル。それが、魔法によって支配される島で、ファンタスティックに展開する。三つめは、アカデミー賞にノミネートされた衣装デザイン。中世を舞台にしながら、男女の黒いコスチュームにジッパーを多用するなど斬新なアイデアが随所に施されている。女性にとっては、ファッション性あふれる衣装を見るだけでも興味深いだろう。

 物語は、肉親の陰謀によって娘とともに国を追われたミラノ大公プロスペラが、漂着した島で身につけた魔術によって、自分を陥れた者たちの乗った船を難破させ、復讐を企てる。しかし、彼女の娘ミランダは、島にたどりついた王子と恋仲になってしまう・・・。

 まだまだ暑い夏が続きます。涼しい美術館で、大人の夏休みを過ごしませんか?

アウェイ・フロム・ハー 君を想う
 もし、あなたの夫や妻、あるいは恋人が病気のためにあなたのことをすっかり忘れてしまい、そればかりかあなた以外の異性に好意を持つようになってしまつたら、どうしますか? 

 この映画は、アルツハイマーを発症した妻を巡る一組の夫婦の物語。結婚44年目になるフィオーナとグラントは、突然、予期しない事態に見舞われる。フィオーナが、色の名前がわからなくなったり、フライパンを冷蔵庫に入れたり、自分でも不可解な行動を取るようになったからだ。医師からアルツハイマーと診断された彼女は、自ら進んで老人介護施設に入所する。一ヶ月後、グラントが面会に行くと、フィオーナは長年連れ添った夫のことをすっかり忘れ、車椅子に乗ったオーブリーという男をまるで恋人のように甲斐甲斐しく世話していた。

 実は、グラントには、大学教授をしていた教え子と浮気を繰り返してフィオーナを苦しめてきた過去があり、フィオーナの態度は自分への罰なのではないかという疑念から、グラントは苦悩する・・・。

 私事になるが、今年2月に一番親しかった学生時代の友人を病気で亡くした。高知と長崎と遠く離れていたが、いつか再会して京都時代の思い出を語り尽くしたいといつも思っている相手だった。自分の人生をジグゾーパズルに例えると、親友を亡くして、一番大きなピースの一つを欠いたような寂寥感を感じた。それと同時に、思い出を共有していた相手を失ってしまうと、自分の思い出そのものがあやふやで頼りないものになってしまう感覚に襲われもした。

 映画の場合、フィオーナは生きているが、記憶が欠落しているので、彼女にとってグラントは見ず知らずの第三者でしかない。連綿とした夫婦としての記憶を持つ以上、グラントにとってそれは不条理で受け入れがたいことに違いない。しかし、相手は死んでいるわけではない。過去の記憶は失われていても、共に未来の記憶を作り出すことはできないか? そこにわずかな希望は残されていないだろうか?

 フィオーナを繊細に演じたジュリー・クリスティは、ゴールデン・グローブ賞主演女優賞を受賞している。

人生万歳!
 今回は、「アニー・ホール」「マンハッタン」「ハンナとその姉妹」「カイロの紫のバラ」など数々の名作で有名なコメディアン出身の監督ウッディ・アレンの最新作を上映します。   もともと彼の映画はニューヨークを舞台にすることが多かったのですが、2005年の「マッチポイント」以来、ロンドンやバルセロナなどヨーロッパでロケした作品が続いていました。その彼が、再びニューヨークに帰ってきました。映画は、70年代に書かれていながら、映画化が実現しなかった幻の脚本を基に製作され、ウッディ・アレンの初期の作品を彷彿とさせる、都会的で軽妙なタッチのコメディに仕上がっています。

 かつてノーベル賞候補になりながら、今ではすっかり落ちぶれてしまった物理学者のボリス。ある夜、彼はアパートの前で、田舎から家出してきた若い娘メロディに声をかけられる。寒さで震える彼女を気の毒に思った彼は、数晩だけという約束で泊めてやることにする。ところが、世間知らずのメロディは、冴えない中年男のボリスと暮らすうちに、彼こそは“運命の相手”だとすっかり思いこんでしまう。親子以上に年の離れた、また、とんでもない“知的格差”の二人の恋の顛末は・・・?

 ウッディ・アレンはアカデミー賞の数々の賞を受賞していながら、授賞式に出たことがないことでも有名でした。ジャズ・バンドのクラリネット奏者としての顔も持つ彼は、「アニー・ホール」がアカデミー監督賞と脚本賞に輝いた授賞式の夜も、自分が毎週出演しているライブハウスでクラリネットを吹いていた、という逸話があります。それが彼のニューヨーク・スタイルだったのでしょう。

 この上映会は、日本赤十字社を通じて収益の全額を東日本大震災の義援金とさせていただきます。

シチリア!シチリア!
 名作「ニュー・シネマ・パラダイス」で、映画や映画館を通して故郷シチリアと町の人々の思い出を溢れるような愛情で描いたジュゼッペ・トルナトーレが、再びシチリアに帰ってきた。今回描き出されるのは、彼の実父のエピソードを含む親子三代にわたる家族の物語。第二次世界大戦や戦後の労働運動、主人公ベッピーノの運命的な恋など、1930年から1980年にかけての激動のイタリアの歴史を背景に、それでも変わることのない親子の情愛や家族の絆を壮大なスケールで描いた作品。胸を揺さぶる情感豊かな音楽は、名コンビ、エンニオ・モリコーネの作曲。

 この映画の公開に際し、日本からのインタビューに応えて彼はこう語っている。「故郷と言っても、もちろん愛だけじゃない、他の感情もあります。それは、本当はこの土地に慣れるはずだったがそうはならなかったこと。小さな天国にもなれる可能性のある土地だったが、そうはならなかった。だから、愛というものの中にある悲しみのひだのようなもの、それが私がシチリアという故郷に惹かれる理由です。」

 この映画を作る2年前、トルナトーレはローマで暴漢に襲われ生死の境をさまよう体験をしている。死に瀕して改めて生きる喜びを実感した彼は、もう一度故郷シチリアを舞台に、自らの生い立ちを重ね合わせた物語を紡ぎ出した。「複雑な気持ちを抱き、混沌としたイメージの故郷に、自分なりの形を与えたかった。」と言うように、彼の作品の中で最も自伝的色彩の強い作品と言えるかもしれない。

 2009年アカデミー外国語映画賞イタリア代表作品。

トロッコ
 ある夏、父親を亡くしたふたりの子どもと母親が父の故郷・台湾を訪ねる。お爺さんに父の遺灰を届けるためだった。台湾の小さな村では、お爺さん一家が親子を温かく迎えてくれる。日本統治時代を体験しているお爺さんは、ときおり日本語で日本への思いを語りかけてくれる。

 6歳の弟は、すぐに周囲にうち解けて甘えるが、8歳の兄は父親を亡くした悲しみや母親を心配する気持ちをちいさな胸にしまいこんでいる。夫を亡くしたばかりの若い母親は、兄の複雑な気持ちを察する余裕がなく、ふたりの関係はどこかギクシャクしている。

 あるとき、母親から叱られた兄を優しく慰めたお爺さんは、父親の大切にしていた写真に写っているトロッコのある場所を一緒に探してくれる・・・。

 この映画の原作は、芥川龍之介の有名な短編。文庫で8ページほどの作品を改めて読み返してみた。男の子が、工事現場のトロッコに興味を持ち、工夫と一緒にそれを押していくうちに見知らぬ土地まで行ってしまい、夕暮れに泣きながら家まで駆け戻ってしまうという話。自分の見知った場所から遠く隔たってしまうことの不安と寂しさが、幼い子どもの目を通してすくい取られている。

 映像にしてみれば3分程度のエピソードだと思われるのだが、この映画は、日本と台湾の歴史的関係を踏まえながら、父親を失った親子が、台湾に住むお爺ちゃん一家とのふれあいを通して、心の絆を深め合う成長の物語として描かれている。

 叙情性豊かな美しい風景をカメラにおさめたのは、「空気人形」「ノルウェイの森」の撮影監督リー・ピンビン。主演は、カンヌ映画祭グランプリの「殯の森」で主演した尾野真千子。白い髭の印象的なお爺ちゃんを、台湾映画・演劇界の重鎮ホン・リウが演じている。監督は、これが初監督作品となる川口浩史。

 台湾のしたたるような緑が心を洗ってくれる、現代日本映画の秀作が誕生した。 

ハロルドとモード
 高校時代に入っていた文化系クラブの部室でよく話題にしていたのは、不謹慎ながら“死ぬこと”だった。みんな受験競争の重圧に疲れ切っていて、それから逃れるための夢想として文学少女たちは、「どうやったら楽に死ねるだろうね。」「苦痛を感じないで死ぬにはどんな方法があるか。」といった話をよくしていた。そういう話をしていても、身内に生命力の充ちている十代の頃には、死は遠い未来のことであり、心の底では自分とは無縁のものとして感じられたから、逆にそんな話ができたのだと思う。その頃には、死は空想や観念の中のものでしかなかった。ゲームなどバーチャルなものが横溢している現代では、そうした感覚は一層加速しているかもしれない。

 この映画の主人公ハロルドも、裕福な家庭に生まれ何不自由ない暮らしができるはずが、自殺ごっこを趣味として死と戯れる日常を送っている。着る服は喪服、乗る車は霊柩車で、無関係な他人の葬式に出かけていく。そんなことをしているのは、彼なりの必然性があってのことなのだろうが、ハロルドは人生で自分が何をしたいのか、何をするべきなのかがわからないまま、身内の衝動に身を任せている。何度も自殺したふりをして家族を驚かせているが、もう慣れっこになってしまった家族は誰も取り合ってくれない。

 そんな彼がある葬式の場で、人生を積極的に謳歌する老女モードと出会う。もちろん79歳のモードにとって、死は観念のものなどではなく、目先のことであり、日常の延長上にある。果敢でバイタリティ溢れるモードと行動を共にするうち、ハロルドの中で何かが大きく変わり始める・・・。

 19歳の少年と79歳の老女の不思議でファンタスティックなラブ・ストーリー。70年代アメリカの、今も人気のあるカルト・ムービーであり、青春映画の秀作。DVD化されておらず、フィルムは日本に1本しかありません。どうぞお見逃しなく。

アイガー北壁
今回上映する「アイガー北壁」は、山岳史上最も有名な事件を、迫真のリアリティで克明に描き出した作品。

 時は1936年、ベルリン・オリンピックの開催を目前にしたドイツ。ヒトラー率いるナチス政権は、国威高揚のため「ヨーロッパ最後の難所」と呼ばれていたアイガー北壁をドイツ人の手で征服することを強く期待していた。ヒトラーは、アイガー北壁を最初に登頂した者に金メダルを贈ると宣言していた。

 これに呼応したのが、山岳兵であり、ヨーロッパの難攻不落の山を次々と登頂していたトニー・クルツとアンディ・ヒンターシュトイサーだった。理想に燃える二人は、ドイツ人の誇りと国家の期待を背負ってアイガー北壁に挑む。その後を追って、オーストリアの二人の登山家も北壁を登り始めていた。やがて2組のパーティはひとつのザイルで結ばれて行動を共にするようになる。それは、オーストリアと協定を結んだばかりのドイツにとって、非常に好都合なプロパガンダになるはずだった。そして、4人は驚くべき速さで高度を上げていったが・・・。

 最近のドイツ映画の躍進はめざましい。2007年「善き人のためのソナタ」で、2008年には「ヒトラー贋札」で2年連続アカデミー外国語映画賞を受賞している。今年は、「善き人―」を監督したフロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルクがアンジョリーナ・ジョリーとジョニー・デップを起用した新作「ツーリスト」でハリウッド進出を果たしている。

 本作は、ぜひスクリーンでご覧いただきたい。極寒、悪天候、落石など、あなたも自然の猛威にさらされながら、アイガー登攀の一員のような擬似体験をすることができます。

日韓アニメーション特集
電信柱エレミの恋」「マリといた夏
 今年も早、師走。映画好きとしては、「今年最後に観る映画は何にしよう?」とついつい考えてしまいます。後味の悪い映画で終わりたくないし、何か来年に向けて希望の持てるような作品で締めくくりたい!

 そこで今回は、日韓の心温まるアニメーション特集をお贈りします。

 日本のアニメ「電信柱エレミの恋」は、下町の一本の電信柱が、電気工の青年に恋をしてしまう不思議なお話。ある日、電力会社のタカハシという青年に修理してもらったエレミは、どうしても彼と話がしてみたくなり、電話回線に侵入し、人間のフリをしてタカハシに電話をかけてしまいます。それを知った街中の電信柱は、二人の噂で大騒ぎになります・・・。

 パペット(人形)を少しずつ動かしながら一コマ撮りしていくストップモーション・アニメの手法を使って、8年がかりで手作りされた作品です。中田秀人監督を中心とする制作チーム「ソバットシアター」は、この映画により文化庁メディア芸術祭アニメ部門優秀賞及び毎日映画コンクールアニメ部門大藤信郎賞を受賞しています。宮澤賢治の短編「シグナルとシグナレス」を思わせるような、リリカルで懐かしい薫りのする作品。

 一方の韓国アニメ「マリといた夏」は、十二歳の少年の不思議でファンタジックなひと夏の体験を描いた作品。人気俳優イ・ビョンホンと映画界の重鎮アン・ソンギが声の吹き替えをしていることでも評判となりました。アヌシー国際アニメーション・フェスティバル長編部門でグランプリ受賞。

 どちらもシネマ・サンライズがクリスマス・シーズンに贈る、懐かしくて心温まるクリスマス・プレゼントです。ぜひご家族でご鑑賞下さい。

孔雀
 家族とは、いつも食事を共にする存在。ときに笑いの、ときに怒りの、そしてときに頭痛のタネでもある? 

 舞台は、中国のありふれた地方都市。京劇の小さな劇場、工場、郵便局があり、街角に出ればすぐに見知った顔に出会う。この映画は、そんな街に住む一組の家族に焦点をあて、どんなに時代が変わっても、変わることのない庶民の暮らしを美しいカメラワークで切り取った作品。

 家族の中で、自由に憧れる姉のウェイホンは、ある日空から舞い降りてきた落下傘部隊の将校に恋をして、自分も部隊に志願する。知的障害のある兄のウェイクオを不憫に思う母親は、何とか彼に嫁を取ろうと奔走する。兄を馬鹿にし、貧しい暮らしを嫌った弟のウェイチャンは、故郷を捨てて飛び出していく。誰もが自分の幸せを求めるのだが、幸せはその手からすり抜けてしまう。あるいは、思いもかけないところからやって来る。そうした人生の“ままならなさ”が、ペーソスと哀感をこめて描き出される。

 映画では、食卓を囲む家族の風景が何度も登場する。思いはバラバラで、それぞれの境遇は変わっても、食卓はいつもお互いが家族であることを確認する場所なのだろう。

 監督は、海外でも活躍する「さらば、わが愛/覇王別姫」の名カメラマン、クー・チャンウェイ。初監督作品ながら、ベルリン国際映画祭で審査員特別賞・銀熊賞を受賞している。

 この映画を観ると、自分はどれだけの時間、あるいは後何回家族と食卓を囲むことができるだろう、という思いに駆られる。

冷たい雨に撃て、約束の銃弾を
 男性なら、子どもの頃に“ピストルごっこ”で遊んだ記憶をお持ちではないか。おもちゃのピストルで撃ち合う子どもたちは、空想の中でテレビや漫画の登場人物になりきっている。「ブレイキング・ニュース」や「エグザイル/絆」などで知られる香港映画の職人監督ジョニー・トーの映画は、大人になってもピストルごっこ=ガンファイトを続けたい大人のための擬似ユートピアだ。子どもにとって、ヒーローは自分のあり得べき未来のようなものだが、分別のついたいい大人がごっこ遊びを続けるためには、人の仇討ちを助けるとか、友情のために立ち上がるとか、弱い者に味方するとか、自分や周囲を納得させるファクターが必要になる。ましてや、最新作「冷たい雨に撃て、約束の銃弾を」の主人公たちのように、中年になり、頭が禿げ上がったり、でっぷりと腹が出てしまうと、もはや見てくれに格好良さを求めることはできなくなり、義侠心やストイシズムなどの精神性に男のダンディズムを求めるようになる。

 表向きはレストランのオーナーだが、腕利きの殺し屋だった過去を持つ男コステロ。彼は、昔頭に受けた銃弾が元で徐々に記憶を失いつつあった。そんな折り、マカオで暮らす最愛の娘とその家族が何者かに惨殺されるという事件が起こる。コステロは、自分の手で犯人を探すべく全てを投げ打って単身マカオに乗りこむ。そして、運命が引き合わせた3人の凄腕ヒットマンを雇い、娘家族の仇を討とうとするが、徐々に復讐を誓った記憶さえ失い始めていた・・・。

 ジョニー・トーのアクション映画は、いつまでも大人のピストルごっこが許容され礼賛される世界である。それは、流麗でスタイリッシュなカメラワークによって切り取られ、観る者を魅了する。いつまでも遊び続けたい男の永遠の願望が、ジョニー・トーの世界には横溢しているのだが、映画という仮想世界でそれが実現できる彼は、幸せな人かもしれない。

クリーン」 「ヴァイブレータ
 今月は、世界に羽ばたく二人の映画女優の特集です。

 「クリーン」は、香港のマギー・チャンが、その自然体の演技でカンヌ映画祭主演女優賞を受賞した作品。監督は、前夫にあたる「夏時間の庭」のオリヴィエ・アサイヤス。

 歌手として成功することを夢見るエミリーは、ある日突然有名なロックスターだった夫リーをドラッグの過剰摂取で亡くしてしまう。一部の人間は、事故を防げなかったエミリーを責め、幼い息子は、今はバンクーバーに住む義父のもとに預けられている。愛する人を失い、息子とも離ればなれになってしまったエミリー。捨てきれない夢、リーの思い出、息子への自責の念、様々な想いが交錯する中、彼女はもう一度息子のために人生をやり直す決心をする・・・。

 併映の日本映画「ヴァイブレータ」は、これまで高知未公開作品ながら、日本版ロードムービーの傑作です。脚本の荒井晴彦、監督の廣木隆一にとっても代表作となりました。主演の寺島しのぶは、30代の女性の揺れ動く心理を、繊細かつ大胆に演じ、本作に加え「赤目四十八瀧心中未遂」の演技もあって、この年のキネマ旬報新人女優賞・主演女優賞をダブル受賞しました。また、今年の大河ドラマ「龍馬伝」で、武市半平太を熱演して話題になった共演の大森南朋は、同じく助演男優賞を受賞しています。

 早川玲、31歳。フリーのルポライターをしている彼女は、いつも頭の中に聞こえる“声”の存在に悩まされ、そのため不眠、過食、食べ吐きを繰り返していた。雪の夜、コンビニに酒を買いに行った彼女は、一人の男を見かける。男に引かれるものを感じた玲は、コンビニを出て行く男の後を追う。男は、東京から新潟へ向かう長距離トラックの運転手だった・・・。

 アジアを代表する女優たちの、ナチュラルで存在感のある演技をご堪能下さい。

しあわせのかおり
 子どもの頃家で食べる中華と言えば、焼きめしや焼きそば、ラーメンやギョウザ、せいぜい酢豚といったところだった。ラーメンと言っても、インスタント全盛の頃で、中華という感覚とはほど遠く、やたらめったら食べていた記憶がある。

 今はグルメの時代と言われ、本格的な中華を提供する店も増え、レシピをもとに自分で作る人もあれば、冷凍や通販・出前など、食べようと思えばいつでも美味しい中華を食べられる状況になった。

 今回上映する日本映画「しあわせのかおり」は、中華料理を通して人の絆や思いやりの心を描いたヒューマン・ドラマ。

 田舎町の中華料理店を舞台にしているので、そんなに高級食材は登場しないが、大衆的な日替わりランチからお祝いの豪華な献立など、60種類以上の中華料理が登場し、目を楽しませてくれる。映画を見終わった後、中華を食べに行きたくなること必至だ。

 もうひとつの見所は、“人にしあわせをもたらす料理“を志す店主・王さんを演じる藤竜也と、店の存続の危機に際して、王さんから中華の手ほどきを受けるOLを演じた中谷美紀の共演。藤は本作と同じ三原光尋監督の「村の写真館」や陶芸映画「KAMATAKI」で近年円熟した演技を見せるようになったし、中谷は「壬生義士伝」で日本アカデミー賞助演女優賞を、「嫌われ松子の一生」では日本アカデミー賞・キネマ旬報主演女優賞をダブル受賞するなど、日本の女優陣の中で頭角を現し始めている。この二人の演技が、ハート・ウォーミングな物語にリアリティを与えている。

 他に、八千草薫・平泉成などが落ち着いた演技を見せ、映画に華を添えている。

戦場でワルツを
 人は心の中に傷を持つと、オブラートに包みこんで、あえてふれまいとする。あるいは、傷つかなくてすむように、心の中で少しずつ記憶を改変していくかもしれない。しかし、その傷があまりにも深いと、傷を受けたことさえも受け入れられず立ちすくむことがある。

 この映画の主人公である映画監督のアリは、バーで旧友と再会するが、会話する中で自分には兵役に出た一時期の記憶が全くないことに気がつく。なぜ自分は覚えていないのか? アリは当時を知る友人たちを次々と尋ね、失われた記憶をたぐり寄せようとする。しかし、それは過去に受けた深い心の傷と対峙することでもあった。

 この作品を深く知るためには、その背景を知っておいた方がいいかもしれない。1982年6月、イスラエル軍は隣接するレバノン南部に侵攻する。内戦の続いたレバノンは、国家としては破綻寸前となっていたが、イスラエルと隣接する南レバノンではPLO(パレスチナ解放機構)が勢力を広げており、イスラエルにとって大きな脅威となっていた。イスラエルの侵攻の目的は、パレスチナゲリラの拠点を壊滅するとともに、首都ベイルートまで侵攻し、親イスラエルのキリスト教マロン派民兵組織「ファランヘ党」の指導者バシール・ジュマイエルを大統領に擁立し、レバノンに親イスラムの政権を樹立することにあった。しかし、9月にファランヘ党の本部ビルが爆破され、バシールが死亡する事件が起こる。ファランヘ党は即座にパレスチナ武装勢力の犯行と断定し、報復措置に出る・・・。

 アリが兵役に出たのは、そうした一触即発の政治情勢の時期だった。この映画の原題は「バシールとワルツを」となっているが、バシールとはこの死亡したファランヘ党の党首のことである。

 本作は、アリ・フォルマン監督の実体験をアニメーションで描くという斬新な手法を使っている。一見、アニメーションとドキュメンタリーはそぐわない印象を受けるが、アニメーションによって作品のテーマはより具体化し、より深化したものとなっている。

 また、この映画は昨年アメリカのアカデミー外国語映画賞を受賞した日本映画「おくりびと」と最後まで賞を競ったことでも有名である。

あの日、欲望の大地で
 人は大きなトラウマを抱えたとき、そこからどうやって立ち直っていくのだろう。過去に犯した過ちが、取り返しのつかないほど大きな結果を生んでしまったとき、その人が心の傷から立ち直る方法はあるのだろうか?

 本作の主人公シルヴィアは、幼い頃犯した過ちにより心に深い傷を抱えているが、それに目をつぶり、自らを痛めつけるかのようにゆきずりの情事に身を任せながら、孤独に暮らしている。自分の感情を閉ざしているように、子どもの頃の記憶も封印したつもりだった。しかし、ある日自分の娘と名のる少女マリアが現れたことにより、それまで封印してきた過去の過ちと直面することになる。過去の大きな過ちを抱えた女性の前に、もう一つの過去が立ち現れたとき、彼女の中で何かが動き始める・・・。

 シルヴィアを「モンスター」でアカデミー主演女優賞を受賞したシャーリーズ・セロンが、その母親を「L.A.コンフィデンシャル」で助演女優賞を受賞したキム・ベイシンガーが、共に複雑な役柄を繊細かつ大胆に演じている。シルヴィアの娘時代を演じたジェニファー・ローレンスは、そのナチュラルな演技によりヴェネチア映画祭で新人賞を受賞している。

 監督は「バベル」「21グラム」の脚本で巧妙なストーリーテリングと深い人間洞察に定評のあるギジェルモ・アリアガ。15年間暖めていた脚本を自ら監督した。撮影は「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」でアカデミー賞を受賞したロバート・エルスウィット。心象風景とも見えるニューメキシコの荒野と薄暗い海沿いの街ポートランドを対照的にとらえたカメラが、冴えざえと美しい。

ウォレスとグルミット ベーカリー街の悪夢
 イギリスのBBC放送では、クリスマスにクレイ(粘土)アニメの作家ニック・パークが生み出した人気キャラクター・ウォレスとグルミットの新作を放送しています。

 ウォレスとグルミットは1989年に「チーズ・ホリデー」という作品で、発明家のウォレスとその相棒というべき忠犬グルミットが、チーズを探してロケットで月へ行く物語で登場しました。この作品はアカデミー賞の最優秀アニメーション部門にノミネートされ、翌90年同じくニック・パークの作った短編「快適な生活」がアカデミー賞を受賞したこともあって、彼の作品は世界中の注目を集めました。その後、このシリーズは94年に「ウォレスとグルミット ペンギンに気をつけろ!」、96年に「ウォレスとグルミット 危機一髪!」で2度もアカデミー賞を受賞しており、いまやイギリスの国民的番組となっています。

 最新作では、ふたりはパン屋さんになっており、パン職人ばかりを狙った連続殺人事件に巻きこまれてしまいます。ちっとも働かず、憧れの女性にポーとなってしまったウォレスを殺人犯の魔手から救うべく、グルミットが大活躍します。タイトルはホラー映画「エルム街の悪夢」にちなんでいますが、「危機一髪!」に犬のターミネーターが登場したように、本作でも有名なSF映画のあっと驚く名シーンが再現されており、大いに楽しませてくれます。ウォレスの声を津川雅彦が、相手役のパイエラの声を森公美子が吹き替えているのも話題です。
このシリーズが年齢に関係なく楽しめるのは、カメラアングルや照明など映画として非常にしっかりした撮り方をされているからです。そして、天真爛漫な笑いと楽しさに満ち溢れているからです。

 最新作「ウォレスとグルミット ベーカリー街の悪夢」に加え、「ウォレスとグルミット  ペンギンに気をつけろ!」「ウォレスとグルミット 危機一髪!」、併せてオランダの秀作アニメ「岸辺のふたり」を加えたスペシャル・エディションでお贈りします。ご家族でお楽しみ下さい。

ディファイアンス
 この映画は、第二次世界大戦下、ナチス・ドイツに迫害を受けるだけの弱い立場だったというイメージのあるユダヤ人を、力強いレジスタンスの闘士として史実に基づいて描き出した点に特徴がある。

 ナチスの占領下、ポーランドの小さな村で両親を殺されたユダヤ人のビエルスキ兄弟は、迫害を逃れてきた同胞と国境近くの森に共同体を作り、ドイツ軍や地元警察、密告者と戦いながらパルチザン(民衆による非正規軍)としての戦いを展開する。そして、収容所から一人でも多くのユダヤ人を脱出させようとする。厳寒の森に地下壕を掘り、木材や藁で簡易な食料加工所や家畜小屋、学校、診療所、浴場などを作りコロニーを形成する。しかし、ナチスの監視の目から逃れるため、必要があればいつでも場所を移動しなければならなかった。

 この共同体を指導したのがビエルスキ3兄弟であり、特に長男のトゥヴィアがリーダーとなった。彼は、「十人のドイツ兵を殺すよりも、おれは一人のユダヤ人の老婆を救う。」と語っているように、共同体を通して一人でも多くのユダヤ人を救出することを信念としていた。

 しかし、敵はドイツ兵だけではなく、ナチスに協力する警察、地元の民族主義者、他の国のパルチザンにも心を許すことができなかった。また、地元農民から見れば、必要にかられてとは言え、食糧を調達していく彼らはユダヤ人の略奪者集団と見えた。そのような敵意や猜疑・差別から来る生存の危機を逃れるため、ユダヤ人たちは時に非情で過酷な選択を余儀なくされた。映画は、そうした共同体の負の側面についても、包み隠さず描き出している。

 「007/カジノロワイヤル」で、ジェームズ・ボンドの人間性を陰影深く演じた性格俳優ダニエル・クレイグが、極限状況下で勇気と決断力を持ち、時に共同体を維持するために冷酷にもなるトゥヴィアをリアルに体現している。それは、時代を越えて、困難な状況において必要なリーダーの資質とは何なのかを我々に問いかけてくる。

 ドイツ軍が壊滅した1944年7月、迫害を逃れた生活から3年、森の中にはビエルスキ隊と呼ばれた1200人のユダヤ人が生き残っていたと言う。

マン・オン・ワイヤー
 今回お届けするのは、今は無きニューヨークのワールド・トレード・センターを舞台にした作品です。

 1974年、フランスの若き大道芸人フィリップ・プティは、当時世界一高いビルだったワールド・トレードセンターのツイン・タワーの間にワイヤーを張り、地上411m(東京タワーより高い!)の綱渡りを決行します。命綱はつけていません。もちろん、市や警察がそんなことを許可するはずがなく、綱渡りはプティとその仲間たちによって無断で行われたのです。この映画は、彼らが綱渡りの計画を練り、それを実行するまでの一部始終を、関係者の証言や貴重なフィルム、再現映像を交えて描き出した驚愕のドキュメンタリーです。

 チラシを見ると、地上からはワイヤーはほとんど見えないので、人間が空中を歩いているか、ゆったりと浮かんでいるように見えます。危険きわまりないことに、プティはバーを持ったままワイヤーの上に寝そべったりしています。そして、警察に逮捕された後のプティの表情は、達成感に満ち溢れています。

 後に、そのときの心境を聞かれたとき、プティは「完全に“無”と向き合っていました。しかしそれは、ありとあらゆる物が存在するとても満たされた“無”でした。少しも怖いと思いませんでした。」と語っています。

 プティの綱渡りの冒険はこれだけにとどまらず、パリのノートルダム大聖堂、オーストラリアのハーバー・ブリッジ、エッフェル塔とショイヤ宮など世界の名だたる場所で行われています。

 実は、この映画の日本での公開に合わせて、プティは来日しています。ワールド・トレード・センターの綱渡りから35年が経過していますが、その間もプティの綱渡りは続き、逮捕歴も500回以上になり、現在59歳とのことです。そして、大道芸人としても現役で、記者会見の席では得意のジャグリングや手品を披露して、記者達を大いに湧かせたそうです。90年に来日した際には、赤坂のミカドビルで綱渡りをしたそうですが、今回は「東京都知事から招待の連絡がくるといいなと思っています。」と、東京都庁ビルでの綱渡りに意欲を見せたそうです。ぜひ見てみたいものですね。

トゥヤーの結婚
 “心を潤すスローシネマ特集”

 「その木戸を通って」「トゥヤーの結婚」 現在の映画は、アメリカのハリウッド映画に代表される派手でスピード感があって刺激的な大作が主流となっています。映画が興行と言われ、資金が回収され利益をもたらすものでなければならない以上、また、映画が再生産され映画に関わる人たちの生活を支えなければならない以上必要な命題なのですが、映画は同時にひとつの創作物でもあります。ベストセラーにならなくても10年読み継がれる本があるように、また、世代を超えて古びない歌があるように、映画も興行的なヒットは望めなくても、出会う人に影響を与え、何らかの感銘を与える作品としての可能性を秘めています。

 スローシネマは、大分でミニシアター・シネマ5を経営するTさんが提唱した概念ですが、興行的な映画の潮流とは逆に、ゆったりと人間の心情や行動に向き合い、人間の日常の営みの中に奥深いドラマを見出していこうとする映画、と言えます。いくら映画の世界が何でも表現可能な世界だったとしても、観客は映画の中の大きなドラマに自分に身に覚えのある小さなドラマを重ね合わせながら映画を観ていると思うのです。そして、ふたつがささやかでも重ね合わさるとき、そこに共感と感動が生まれるのではないでしょうか。いくらCGで作られた耳目を驚かせる奇抜なものを見せられても、内面的な共感がなければ感動は生まれ得ないと思うのですが、どうでしょうか? 

 今回、スローシネマ特集としてお送りする2作品は、決して観客を置き去りにする映画ではなく、観客の心が映画に寄り添うまで待ってくれる作品です。

 「その木戸を通って」は、亡くなった名匠市川崑が1993年にハイビジョン・カメラで撮った作品。その映像美と完成度の高さから、昨年フィルムで劇場公開されました。山本周五郎原作、中井貴一・浅野ゆう子共演。
 
 「トゥヤーの結婚」は、モンゴルの荒野に生きる若妻トゥヤーが、ダイナマイト事故で半身不随になった夫を助けるため、夫を扶養してくれることを条件に再婚する話。困難な状況の中でもたくましく凜として生きる女性像が、ベルリン映画祭グランプリをもたらしました。
 秋の夜長、人間の営みを暖かく見守ってくれる映画に出会いに来て下さい。

その土曜日、7時58分
 昨年、日本映画界で最高齢である新藤兼人監督が新作映画を撮って話題になったが、アメリカにも社会性の強い娯楽映画を作り続けてきた長老監督がいる。84歳で今回上映する作品「その土曜日、7時58分」を撮って健在ぶりを示したシドニー・ルメット監督である。

 この監督が本当の意味で凄いのは、高齢にして現役であるというだけではなく、彼が10年周期くらいでアメリカの映画史に残る自らの代表作を生み出し続けているからだ。

 シドニー・ルメットは50年代にテレビ・ディレクターから映画監督に転身したが、そのデビュー作が裁判映画の代名詞とでも言うべき秀作「十二人の怒れる男」だった。60年代には、冷戦下の核戦争の恐怖をリアルに描いた「未知への飛行」があり、もっとも油ののりきっていた70年代には、警察内部の不正を告発する男の孤独な闘いを描いた「セルピコ」、アガサ・クリスティ原作のミステリー「オリエント急行殺人事件」、社会性のある犯罪映画のお手本のような「狼たちの午後」、テレビ界の内幕と陰謀を描いた「ネットワーク」などの傑作を続々と生み出し、巨匠たちの仲間入りを果たした。80年代には、落ちぶれた弁護士が自らの尊厳を取り戻す法定劇「評決」でポール・ニューマンをアカデミー賞候補にし、90年代には警察内部の腐敗を告発する映画の集大成「Q&A」を作った。

しかし、2000年代に入ってからは振るわず、相変わらず映画は作っていたが、テーマ性に乏しい中途半端な作品が多く、その低迷ぶりに往年のファンは心を痛めていた。もう終わった監督だという、心ない声もあった。

 その彼が、彼自身の描く映画の主人公のように、不屈の精神力でカムバックしてきたのが本作である。金に困った兄が、うだつのあがらない弟を誘って両親の営む宝石店の襲撃計画を立てる。店は保険に入っており、誰も傷つかずにすむはずだったが・・・。ひとつの事件を、それぞれの登場人物の目を通して多面的に描き出すという手法の斬新さが話題になった。また、フィリップ・シーモア・ホフマン、イーサン・ホーク、アルバート・フィニーなど実力派の俳優たちの演技合戦も魅力だ。

 老いてなお気骨を見せる映画監督シドニー・ルメットは、これからも生涯現役を貫き通すことだろう。2008年キネマ旬報外国映画監督賞受賞。

チェチェンへ アレクサンドラの旅
 地方で紹介されることの少ない優れた映画監督というのが意外といるものだが、「現代ロシアを代表する人物」「現代最高の映画作家」と言われながら、高知ではなかなか上映されることのない監督がアレクサンドル・ソクーロフだ。高知県立美術館以外で上映されたのは、天皇ヒロヒトをイッセー尾形が演じて話題になった「太陽」ただ一作ではないだろうか。3時間を超える長大な作品が多いことも、公開を阻む原因になっていると考えられる。

 そうしたソクーロフも、近年は本作のような1時間半程度の短い作品も作るようになった。

 映画では、アレクサンドラという女性が、チェチェン共和国内のロシア軍駐屯地に大尉として勤務する孫を訪ねる。ロシアでは、戦闘さえなければ、家族が前線にいる兵士を訪ねるのは普通にあることらしい。アレクサンドラは懐かしい孫と再会し、銃の手入れをしたり、車両の整備をしたり、兵舎で食事をする若い兵士たちを目にする。まだあどけないとも見える彼らも、事あらば人を殺さなければならない職業軍人なのだ。「破壊ばかりで、建設はいつ学ぶの?」アレクサンドラは深いため息とともに上官に問いかける。

 ソクーロフの、これに先立つ作品「精神の声」で取材した若い兵士達は、アフガニスタン侵攻に駆り出され、部隊は全滅し誰一人戻らなかった。だから「精神の声」は彼らへのレクイエムで始まるのだが、そうした痛恨の思いが本作にも受け継がれている。

 アレクサンドラに起用されたのは、ロシアの有名なオペラ歌手ガリーナ・ヴィシネフスカヤ。旧ソ連に国籍を剥奪され、夫とともに20年以上アメリカで亡命生活を送ったことのある気骨ある女性だ。劇中では、彼女が1940年代に録音した歌も聞くことができる。

 2008年キネマ旬報ベストテン第10位。

ロルナの祈り
 映画はよく現実を映す鏡であるとか、現実を見る窓といった言い方をされますが、それでは映画が現実に対して何か出来ることがあるのでしょうか? 出来ることがあるとすれば、その視覚表現の具体性によって、知らないことを知る、あるいは知っていると思っていることについてより深く知る手助けをするということではないでしょうか。

 映画一本で何かが変わるわけではないと、普段は訳知り顔で僕らは思っています。しかし、例えばアカデミー外国語映画賞を受賞して話題になった「おくりびと」を観た人は、死者を弔う仕事に対する職業観が変わったことでしょうし、若い人で葬儀の仕事に就く人も出てきたと言いますから、その人にとって「おくりびと」は人生の転機を与えてくれた作品ということになります。もちろんそれは映画に限ったことではなく、本や音楽などあらゆる表現媒体に言えることなのですが。

 私たちの日常は混沌としていて、現実は複雑でよく見えません。日々の忙しさに振り回されて、大切なことを立ち止まってじっくり考えてみることがなかなかできません。頭の中では、取りあえずやらなければならないこと≠ェひしめいています。優れた映画が与えてくれるのは、混沌とした現実に自分なりの秩序を回復するための切り口やきっかけではないでしょうか。

 「ロゼッタ」「ある子供」で2度のパルムドールを授賞したダルデンヌ兄弟の作品は、できれば社会生活を送る中で目にしたくないような、厳しい現実をつきつけてきます。「ロルナの祈り」の場合も、メインとなるのは社会の底辺で不法移民として生きる女性と、重度の麻薬中毒の男性の心のふれあいです。アルバニアからの移民であるロルナは、ベルギーで国籍を得て恋人と店を持つことを夢見て、斡旋業者の手により麻薬中毒患者であるクローディと偽装結婚します。業者は、クローディを殺してロルナを再びロシア人と結婚させ、高額の仲介料を取ることを画策しますが、麻薬を絶つために自分を唯一の頼りにしているクローディにいつしかロルナは愛情を感じてしまいます・・・。

 2008年カンヌ映画祭最優秀脚本賞受賞。

 6月17日(水)、高知県立美術館ホールにて、午後2時、3時55分、5時50分、7時45分より。前売り1500円、当日1800円、シルバー・障害者・高校生1300円。チラシ持参の方は当日料金より300円割引き。シネマ・サンライズ主催。お問い合わせ088‐872‐5208吉川まで(午後8時以降)

エレジー
 今回の上映回から、適当な作品があるときには、「世界名優列伝」と題し、50歳以上で個性的で円熟した演技をみせてくれる主演俳優にスポットをあてて紹介したいと思います。
 今回は、シリーズ第一弾として「死ぬまでにしたい10のこと」のイサベル・コイシェ監督の最新作「エレジー」で主演している、イギリスを代表する名優ベン・キングズレーを取り上げます。

 ベン・キングズレーは82年の「ガンジー」で米アカデミー主演男優賞、ゴールデングローブ賞、英アカデミー賞を受賞。その後、「バグジー」「Sexy Beast」(日本未公開)「砂と霧の家」で3度米アカデミー賞候補となり、その演技により英国からナイトの称号を与えられています。他に「オリバー・ツイスト」「シンドラーのリスト」などの代表作があり、「シンドラーのリスト」ではシンドラーの右腕となる会計士を抑制のきいた演技で演じ、深い印象を残しています。

 ヒロインとなるのは、最近「それでも恋するバルセロナ」で米アカデミー助演女優賞を受賞したばかりのスペインの名花ペネロペ・クルス。「ブルーベルベット」や「スピード」で強烈な犯人役を演じ、60年代の伝説的映画「イージー・ライダー」の監督でもあるデニス・ホッパー、近年「エデンより彼方へ」「エイプリルの七面鳥」の演技が高く評価されているパトリシア・クラークソンなど、実力派俳優が脇を固めています。

 「エレジー」は、快楽主義を標榜し自由に恋愛を楽しむ大学教授デヴィッドと、30歳年下の大学生コンスエラとの出会いと別れ、そして人生の悲哀を感じさせる再会の物語。コンスエラに心を奪われたデヴィッドは、自分の主義に反して、それまで感じたことのなかつた熱情と嫉妬にかられて苦悩する・・・。

 今やスペインを代表する女優に成長し、世界で活躍するペネロペ・クルスの類いまれなる美貌と美しい肢体は、観る者がめまいを起こしそうなほど。

 配役と映像が贅沢な大人のためのエンタテイメント。

 高知県立美術館ホールにて、5月27日(水)午後1時30分、3時30分、5時30分、7時30分より。前売り1500円、当日1800円、シルバー・障害者・高校生1300円。チラシ持参の方は当日料金から300円割引。シネマ・サンライズ主催。お問い合わせはTEL088‐872‐5208吉川まで(午後8時以降)

エグザイル/絆
 香港アクション映画の雄ジョニー・トー監督の新作が観られる、それもなかなかの傑作らしいと聞くと映画ファンとしては心が躍る。それはちょうど、かつてヒッチコックの新作に寄せられていた期待感に似ている。今度はどんなサプライズや見せ場が用意されているだろうという楽しみ。

 しかし、映画の作り方はヒッチコックとジョニー・トーでは全く違う。観客を翻弄するほどの綿密な脚本を持つヒッチコック作品とは違い、驚くべきことにこの「エグザイル/絆」は脚本なしで撮影されたという。もちろん、役者には始めにそれぞれの役柄が割り当てられているのだが、どういうストーリー展開にするのか、どういうプロットでどういうアクションを見せるのか、また、役柄をどう肉づけしていくのかはアイデアを出し合いながら撮影現場で作られていったそうだ。まさに、低予算と早撮りに慣れたジョニー・トーならではの映画作りなのだが、それを実現するためには、どういうアイデアにも応えられる高度な撮影テクニックや、どういう演技を要求されても役柄がブレない演技力が要求される。スタッフはもちろん、どの俳優もトー組の常連であり、気心の知れた者同士の和気藹々のチームワークが、ジョニー・トーの集大成ともいえるこの作品で遺憾なく発揮されている。

 アクション映画といっても、凄惨なリアリズム映画ではなく、クールでスタイリッシュなアクションなので、何度でも繰り返し観たくなる。CGの全盛によって、現代の映画が失いつつある映画本来の面白さが画面に横溢している。2008年キネマ旬報洋画ベストテン第8位。

つぐない
 ハリウッド映画が、コミックの映画化や外国映画のリメイクに血道をあげている間に、イギリス映画界のひとつの潮流として、現代文学の芳醇な映画化というジャンルが確立されようとしています。

 イギリスの有名な文学賞としてブッカー賞があり、世界的に権威のある文学賞のひとつとされています。近年、このブッカー賞の受賞作品や最終選考まで残った候補作品が映画化されるケースが増えています。有名なところでは、日系イギリス人のカズオ・イシグロの受賞作「日の名残り」(「眺めのいい部屋」のジェームズ・アイボリー監督)であり、「あるスキャンダルの覚え書き」や「プルートで朝食を」は、最終選考まで残った候補作の映画化でした。他にも「恋の闇 愛の光」や「オスカーとルシンダ」などもありましたから、ブッカー賞は優れたイギリス映画を生み出す温床と言えます。

 「つぐない」は、1989年の受賞者イアン・マキューアンの世界的ベストセラー「贖罪」が原作です。「贖罪」自体は、最終選考に残った作品ではあっても受賞作ではないのですが、イアン・マキューアンの最高傑作と言われています。

 1930年代、戦火の忍び寄るイギリス。政府官僚の美しい娘セシーリアと使用人の息子ロビーとの身分を越えた愛が、セシーリアの多感な妹ブライオニーのついた嘘で、無残にも引き裂かれてしまう。自分の犯した罪の重さに耐えきれず、苦悩するブライオニー。最前線の戦地に追いやられたロビーと、彼を待ち続けるセシーリアが再び出会える日は巡ってくるのか・・・?

 主演は、今最も輝く女優の一人キーラ・ナイトレイ。ロビーを演じるのは、「ラストキング・オブ・イングランド」の演技で認められたジェームズ・マカヴォイ。監督のジョー・ライト以下、名作「プライドと偏見」のスタッフが、原作の緻密さと文学性を損なうことなく、いつまでも語りつがれる愛の秀作を完成しました。ゴールデン・グローブ作品賞・作曲賞受賞。

きみの友だち
 女の子がふたり、並んで空を見上げている。彼女たちが見ているのは、空に浮かんだ“もこもこ雲”だ。雲は彼女たちにとって、友情と希望の象徴だった。

 交通事故の後遺症で松葉杖をついている小学生の恵美と、難病をかかえて学校を休みがちな由香。クラスでも浮いてしまいがちだったふたりは、ふとしたきっかけから急速に親しくなる。周りに溶けこめず、孤独を意識しながらも、心を通わせあえる友だちを切実に欲していたふたりの気持ちは、「歩く速さが一緒だったから、友だちになった。」という恵美の言葉に集約されている。ふたりは、小中学校と5年間をずっと一緒に過ごすが、恵美が高校を受験する頃、次第に由香の病状が悪化していく・・・。

 重松清の同名小説の映画化。重松さんは、常に子どもたちや家族の抱える問題を扱い、孤独と不安を抱えながらも、自分を見失わないよう必死で生きる人々に共感とエールを送り続けている。子どもの頃、何度も転校を繰り返した重松さんにとって、子どもたちの孤独や不安の辛さ、友情のかけがえのなさを描くことは永遠のテーマなのだろう。「この作品を書いたのは3年前になります。映画を観て、また昔の友だちに会えたようでした。」と語る重松さんは、試写室を出てから、ロビーで待っていた廣木隆一監督を感謝の気持ちをこめてハグしたそうだ。映画には、恵美と由香のみならず、彼女たちに関わる大勢の子どもたちの日常が、過ごした時間のかけがえのなさとともに定着している。

 どういう年代の人がご覧になっても、自分の一番大切な人と、あらためて心を通わせてみたい気持ちにさせられる珠玉作。

 上映は25日(火)、高知市高須の県立美術館ホールで。午後2時、4時30分、7時分より。一般1800円(前売り1500円)、シニア・障害者・高校生1300円。チラシ持参の方は、当日料金から300円割引。問い合わせは、吉川まで(午後8時以降、088・872・5208)。

シークレット・サンシャイン
 「映画の自主上映会を開催するたびに、会場でアンケートを行っています。項目は、その日上映した映画の感想や上映希望作品などです。アンケートの数はその日の観客数にもよるので、多いときも少ないときもあるのですが、上映会終了後に自宅で“打ち上げ”と称して飲むビールと同じくらい、お客さんのアンケートを読むのをとても楽しみにしています。アンケートを読みたいがために、上映会をやっているのではないか思えるほどです。

 アンケートの中で、今回の映画は重い内容だった、難しかった、と感想を述べられる場合があります。そうした回答の裏には、なぜこんなシリアスでややこしい映画を上映するのですか、という問いかけも感じられます。何も深刻な映画や小難しい映画が好きで、そんな映画ばかり上映しているつもりはないのですが、そういう問いかけにはこうお答えするようにしています。せっかく映画を上映するのだから、見終わった後簡単に忘れ去られてしまうような作品を上映するのが嫌なので、10年は覚えていてもらえるような作品を選びたいと考えており、結果的にシリアスな映画になったり、重い映画になったりしてしまうのだと。映画はその価値に応じた取り扱いをされるべきだと考えているので、映画を単なる消耗品扱いしたくないのです。

 そういう意味で、シリアスな映画の真骨頂のような作品が、今回上映する韓国映画「シークレット・サンシャイン」です。監督は、「ペパーミント・キャンディ」や「オアシス」で、文学性の高い硬質な表現で人間性の深淵を描き、独自の道を歩み続けるイ・チャンドンです。本作でも、息子を誘拐されたシングルマザーの深い悲しみと、彼女を気づかい寄り添う男の物語を、胸苦しいほどの痛切さで描いています。

 悲劇的な内容であっても、そこに人生の真実がこめられており、見る側がそれを感じ取れたら、それは生きるうえでの大いなる励ましになると思えるのですが、いかがでしょうか?

主演のチョン・ドヨンはこの作品でカンヌ映画祭主演女優賞を受賞しています。

 上映は29日(水)、高知市高須の県立美術館ホールで。午後2時、4時30分、7時より。一般1800円(前売り1500円)、シニア・障害者・高校生1300円。チラシ持参の方は、当日料金から300円割引。問い合わせは、吉川まで(午後8時以降、088・872・5208)。

MONGOL
 「モンゴル」という映画が日本の浅野忠信主演で作られたのを知ったとき、とても意外な気がした。確かに最近の浅野は、日本映画界でも活躍が目立った。「父と暮らせば」「母べえ」など、著名な監督の作品の中で、好感度の高い印象的な演技を残している。しかし、海外の大作映画において、ロシアの監督の下、チンギス・ハーンとは? まさか義経チンギス・ハーン説を踏まえたわけでもあるまい?

 いかにも、浅野忠信がこのドイツ・ロシア・カザフスタン・モンゴルの国際的プロジェクトとも言うべき映画づくりでチンギス・ハーンを演じるのは大抜擢と言うべきだが、彼のキャリアを見れば、必然の流れなのかもしれない。これまでにも、オーストラリア出身のクリストファー・ドイル監督の「孔雀」、台湾のホウ・シャオシェンの「珈琲時光」、ヴェネチア映画祭コントロコレンテ部門で主演男優賞を受賞したタイのベルエーグ・ラッタナルアーン監督の「地球で最後のふたり」などがあり、特にアジア映画には意欲的に出演している。また、北野たけしの「座頭市」で座頭市の敵役を演じ、激しい殺陣で渡りあうが、この作品がヴェネツィア映画祭で監督賞を受賞していることも浅野の存在を世界にアピールしたことだろう。

 「モンゴル」に出演するにあたり、問題となったのは何より言葉だった。この作品は全編モンゴル語で撮られているので、浅野はCDに録音されたモンゴル語のセリフを毎日聞き一年間かけてセリフを覚えたが、撮影の一週間前にシナリオが変更されてしまい、すべてを覚え直さなければならなかったという。また、激しい殺陣のシーンでは通訳の声が届かず、危険な思いをしたり、生傷が絶えなかったそうだ。

 「モンゴル」はカザフスタンから出品され、アカデミー外国語映画賞にノミネートされるという快挙を成し遂げた。惜しくも入賞は逃したが、浅野は監督のセルゲイ・ボドロフと共にアカデミー賞の式典にのぞんで、レッド・カーペットを踏んでいる。「ラスト・サムライ」で助演男優賞ノミネートの渡辺謙、「バベル」で助演女優賞ノミネートの菊池凜子に続く快挙と言える。

 実は、浅野の祖父はネイティブ・アメリカンなのだそうだ。モンゴルの大草原で、彼の中に眠る祖父の血が解き放たれたのかもしれない。

 9月25日(木)、高知県立美術館ホールにて、午後2時20分、4時40分、7時より。前売り1300円、当日1800円、シルバー・障害者・高校生1300円。チラシ持参の方は当日より300円割り引き。シネマ・サンライズ主催。お問い合わせはTEL088‐872‐5208吉川まで(PM8時以降)  

4ヶ月、3週と2日
 2007年のカンヌ映画祭で、「4ヶ月、3週と2日」という不思議なタイトルのルーマニア映画がパルムドールを受賞しました。ルーマニア映画というと日本ではあまり公開されていませんが、2005年以降のカンヌ映画祭において、ある視点部門グランプリ、同部門主演女優賞、カメラドール(新人監督賞)受賞など3年連続でルーマニア映画が主要な賞を取っているそうです。

 ルーマニア映画界では、現在、若手の台頭が著しく、ルーマニア・ニューウェーブと言われる現象が起こっています。こうした動きの背景にあるのは、1989年のルーマニア革命によりチェウシェスク独裁政権が崩壊した後、共産主義政権下で押さえつけられていたものが一気に解放され、ようやく共産主義体制下の社会を客観的に描き出すことが可能になったから、と言われています。

 この作品の舞台となるのは、1987年、チャウシェスク大統領による独裁政権末期のルーマニア。望まない妊娠をしたルームメイトの違法中絶を手助けしようとする主人公オティリアの緊張感に満ちた一日を描いた作品。確かな時代考証と徹底したリアリズム、ワンシーン=ワンカットの大胆なカメラワークと俳優たちの息詰まる熱演は、日常的な事柄を題材としながらサスペンスに満ちています。

 当時、ルーマニアの女性は、最低でも3人の子どもを生むよう強制され、45歳に満たない女性は、子どもを4人生むまで中絶してはいけないとされていたそうです。14〜15歳の中学生にも出産が奨励されていたというから驚きです。それは、国力をつけるために、工業化に必要な労働力を確保するため、2300万人だった人口を3000万人まで増やそうとしていたからです。これを受けて、1966年には人工中絶の禁止が布告され、これに背いた者や、これを幇助した者には厳罰が科せられました。秘密警察による取り締まりも行われ、密告が奨励されていました。

 監督のクリスティアン・ムンジウは、「この映画の物語は、私が15年前にある女性から聞いた実話を元にしているんですが、偶然その女性と再会したことで、この話を思い出すことになりました。それで、この話なら、あの時代を語るのにふさわしいのではないかと思い、映画の題材に選んだわけです。」「時代の雰囲気を伝えるといっても、チャウシェスクとか共産主義とか、そういう大上段にふりかぶったものにはしたくありませんでした。ありふれた女子学生の日常生活をありのままに見せることで、あの時代に生きていた人々が日々感じていた抑圧感を描く、というのがこの作品の狙いでもあったのです。」と語っており、作品に取り組む誠実な人柄がうかがえる。

 パルムドールのプレゼンターを務めた女優のジェーン・フォンダは、受賞結果の発表の前にこう語ったそうだ。「映画とは人を楽しませるものであると同時に、世界について考えさせるものです。そしてカンヌはこの二つの現実の間で微妙なバランスを保っているのです。」

 その二つの条件を兼ね備えていることが、この作品がパルムドールに選ばれた理由だったのだろう。

 8月26日(火)高知県立美術館ホールにて、午後1時20分、3時20分、5時20分、7時20分より4回上映。前売り1500円、当日1800円、シルバー・障害者・高校生1300円。チラシ持参で当日料金より300円割引。お問い合わせはTEL088‐872‐5208吉川まで(PM8時以降)

ジェリーフィッシュ
 イスラエル映画のニュータイプというべき作品「ジェリーフィッシュ」をご紹介したいと思うのですが、実はイスラエルについて何の知識も持ち合わせていませんでした。逆に、この映画に関する情報から教えられることばかりでした。本作は、イスラエルの政治や歴史を描いた作品ではなく、社会の一隅でささやかに暮らしている普通の人々を描いた作品なのですが、個々人の生活を深く理解しようとすれば、現在のイスラエル社会についてある程度背景を理解しておく必要がありそうです。

 イスラエルは、19世紀後半、世界中から移住したユダヤの人々によって建国されましたが、子どもがイスラエル生まれでも、両親は出身国の言語や文化を持ちこんでいるので、家庭内で交わされる言語が複数であったり、文化が混在していることが珍しくないそうです。特に、1990年代に入ると、旧ソ連諸国からの移住者が10年間に100万人以上押し寄せ、大きな社会変動をもたらしました。

 また、現在のイスラエル社会において、介護や農業、建築業の分野は、外国人労働者によって支えられています。介護はフィリピン人、農業はタイ人、建築業は中国人とそれぞれ棲み分けされています。映画の中でも、主要人物の初老の女性マルカは、女優である娘から言葉の通じないフィリピン人の介護ヘルパーを押しつけられことに腹を立てています。

 そして、現在でもイスラエルには第二次大戦中のナチスによるユダヤ人絶滅計画「ホロコースト」により収容所体験を持つ人々がいます。体験者の方は、60年以上が経過した今でも、ドイツ時代の記憶を引きずり、後遺症に苦しむ人も多いそうです。この作品の共同監督の一人エトガー・ケレットの両親ともホロコーストの体験者だそうですが、お父さんは、海辺のアイスクリーム売りとしてこの映画に登場します。

 この作品は、結婚式場で働く女性バティアを中心とする群像映画ですが、エトガー監督が語っている「登場人物たちはみんな誰かに忘れられたような、誰かが探しに来てくれるのを待っているような気持ちを持っています。」という言葉が、この作品のエッセンスを伝えている気がします。エトガー・ケレット、シーラ・ゲフェン共同監督。カンヌ映画祭新人監督賞受賞。

 7月29日(火)、高知県立美術館ホールにて、午後1時30分、3時10分、4時50分、6時30分、8時10分より。前売り1500円、当日1800円、シルバー・高校生・障害者1300円。チラシ持参により当日料金より300円割り引き。お問い合わせは088‐872‐5208吉川まで。

君の涙 ドナウに流れ」 「ある愛の風景
 世界の映画界で、最近女性監督の活躍がめざましい。本当に才能のある女性たちが、どんどん映画界に進出してきて、映画に多様性と新たな価値観をもたらしている。

 特に日本映画にそれが顕著だ。筆頭にあげられるのが、カンヌ映画祭でグランプリを獲得した「殯の森」の河瀬直美であり、作品の衝撃度では「ゆれる」の西川美和であり、荻上直子は「かもめ食堂」や「めがね」で男社会の置き去りにしてきた価値観の復権を提案し続けている。それ以外に高知で上映された作品だけでも「酒井家の幸せ」や「赤い文化住宅の初子」「さくらん」などがあるから驚きだ。

 昨年の洋画で特筆すべき女性監督は「敬愛なるベートーヴェン」のアニエスカ・ホランド、「マリー・アントワネット」のソフィア・コッポラ、「サン・ジャックへの道」のコリーヌ・セローあたりか。

 こうした背景には、フィルムでなくとも高画質のビデオカメラで手軽に映画が撮れるようになったこと、コンテストの奨学金で映画が撮れたり、テレビやCMやプロモーション・ビデオの会社から映画に転進するなど、映画会社の撮影所出身でなくとも映画監督になれる選択肢が増えたことが考えられる。

 シネマ・サンライズは6月例会で第100回目を迎えますが、記念上映会を「世界の女性監督特集」としたのは、こうした潮流の中で自然発生的に生まれた企画でした。

 「君の涙 ドナウに流れ」のクリスティナ・ゴダ監督は、1956年のハンガリー動乱を描いたこの一作で国民的な監督となり、「ある愛の風景」のスサンネ・ビア監督は、その優れた作家性により、ハリウッドに招聘されて、アカデミー賞女優ハル・ベリーを主演に新作を作っています。ヨーロッパのキラ星のごとき才能の競演をお楽しみ下さい。

 また、オプショナル企画として、それ以外の世界の女性監督たちの撮った作品の予告編5本を併せて上映します。何が出てくるかはお楽しみに。

 6月24日(火)、高知県立美術館ホールにて、「君の涙 ドナウに流れ」は10時半、15時、19時半から、「ある愛の風景」は12時50分、17時20分から。前売り1500円、当日1800円、シニア・障害者・高校生1300円。チラシ持参の方は当日料金から300円割り引き。お問い合わせはTEL088‐872‐5208吉川まで(20時以降)

勇者たちの戦場
 イラク戦争に駆り出されたアメリカ兵の中に、州兵という存在があることをこれまで知りませんでした。アメリカでは、国家の軍隊とは別に各州が軍隊を持っているそうです。この州兵は、いわゆる職業軍人ではありません。州兵たちの本来の任務は災害救助などであり、月一回軍事訓練はありますが、普通の市民と同様に仕事を持ち、あるいは大学に通っている人々です。手当ては月に3万円程度ですが、州兵を2年間務めれば大学の奨学金をもらうことができるので、これが州兵となる動機となっている人が多いようです。しかし、州兵が国の出動命令を拒否すれば、軍法会議にかけられ、重い刑罰が科せられます。

 2004年時点では、イラクに駐留している11万のアメリカ軍のうち4万人は州兵だったそうです。言わば、戦争がどういうものであるかシュミレーションでしか知らない人間が、突如として遠く離れた最前線に送られ生命の危険にさらされるわけですから、その精神的なストレスは想像に難くありません。

 今回上映する「勇者たちの戦場」は、イラクに派遣されたワシントン州の兵士たちが、戦場において、あるいは帰国してから、戦争反対運動の高まる国内において、どのように過酷な状況に置かれたかを描き出した作品です。タイトルは「勇者たちの戦場」と勇ましい戦争映画のような命名ですが、原題は「HOME OF BRAVE」となっており、勇者たちの帰還≠ニでも訳すべきでしょうか。HOMEは、州兵たちにとっての故郷とも、母国であるアメリカそのものとも読み取ることができます。

 命を奪い合う激しい戦闘に身をさらされ、民間人を誤射したり、目の前で友人が殺されるのを目撃したり、心や体に深い傷を負って帰国した彼らは、元の平穏な市民生活に戻っていくことが困難な状態に陥っています。映画の中で、戦争反対が声高に語られるわけではありませんが、出兵した兵士たちにとってアメリカは本当に母国たりえているのか? そんな問いかけがこめられていそうです。

 5月28日(水)高知県立美術館ホールにて、午後1時半、3時半、5時半、7時半の4回上映。前売り1500円、当日1800円、シニア・障害者・高校生1300円。チラシ持参の方は、当日料金から300円割り引き。シネマ・サンライズ主催。(財)高知市文化振興事業団後援。「シネマの食堂」参加作品。お問い合わせはTEL088‐872‐5208吉川まで(PM8時以降)

やわらかい生活
 高い建物の階段には、よく踊り場が設けられています。いっ気に階段を上がれない場合には、そこでひと息つくことができます。人生を階段に譬えるなら、もう階段を上がれなくなって踊り場でたたずんでいるのが、今回上映する作品「やわらかな生活」の主人公・橘優子です。

 優子は、バリバリのキャリア・ウーマンだった女性ですが、身近な人の突然の死をきっかけに、深い無気力の状態に陥ります。一流企業の総合職を失い、恋人には去られ、それまで縁のなかった蒲田で一人暮らしを始めます。蒲田を選んだのは、デパートの屋上に古めかしく懐かしい観覧車を見かけたからでした。

 世間から隔絶した静かな生活を送れるはずでしたが、無一文のいとこが転がりこんだり、マザコンの都議会議員や気の弱いヤクザなど、訳ありの男たちがいつの間にかアパートに出入りするようになります。彼らもまた、どこか孤独で心の傷を抱えた連中でした。一癖もふた癖もある男たちとの交流を通して、優子の心にもゆるやかな変化が訪れます・・・。

 順風満帆に見える人でも、仕事のプレッシャーや病気、周囲との人間関係など、現代社会は人を落ちこませる要因に事欠きません。人間のコミュニケーション力が弱くなってきており、ストレスに対する耐性がどんどん低くなってきているからかもしれません。うつ状態を表す「心が風邪をひいた。」という言い方が一般的になってきているように、心の病気や病院へ通っていることを隠したりする必要がなくなってきているのは結構なことだと思いますが、それだけ身の回りにそうした病気に苦しむ人が急増してきているからなのでしょう。

 寺島しのぶが、現代を生きる女性を自然体で演じています。また、豊川悦司、妻夫木聡、松岡俊介、田口トモロヲなどの共演陣も豪華です。

 4月23日(水)高知県立美術館ホールにて、午後1時15分、3時25分、5時35分、7時45分より。当日1800円、前売り1500円、シルバー・障害者・高校生1300円。チラシ持参の方は当日料金より300円割引き。シネマ・サンライズ主催。お問い合わせは088‐872‐5208吉川まで(PM8時以降)

僕のピアノコンチェルト
 ときどき、映画の出来の良し悪しとは関係なく、万人に愛されるために生まれてきたと感じられる映画に出会うことがあります。80年代のミニ・シアター全盛期に動員記録を作ったスウェーデン映画「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」がそうでしたし、メジャー系でも「ニューシネマ・パラダイス」や「ギルバート・グレイプ」、アジア映画では「初恋の来た道」などがそうではなかったでしょうか。

 今回上映する「僕のピアノコンチェルト」も、心の片隅にしまっておいて、いつでも取り出して見てみたくなるような、そんな稀有な一本になるのではないかと期待しています。

 主人公ヴィトスは、モーツァルトのようにピアノを弾き、アインシュタインのような数学的ひらめきを持つ12歳の天才少年。幼い頃から驚くべき才能を発揮し、両親は彼をピアニストにしようと名門音楽学校に入れ、英才教育を受けさせている。ヴィトスは両親の期待に応えようとするのだが、ピアノ漬けの日々にはうんざりしている。彼が唯一息をつけるのは、大好きなおじいさんと一緒に過ごす時だけ。おじいさんだけは、彼をありのままの子供として受け入れてくれる。

 IQが計測不能なほど高いがゆえに、ヴィトスは飛び級して高校に通うようになるが、授業には無関心で教室でも新聞を読んでばかり。そのくせ、先生の質問にはいとも簡単に答えてしまうので、同級生や先生との溝は深まるばかり。いったいヴィトスはどうなるの? ピアニストになるという夢は?

 ヴィトスを演じているのは、実際にイギリスの音楽学校に在学しており、新進ピアニストとしてのデビューも果たしているテオ・ゲオルギュー。子供ながら、サンマリノ国際ピアノコンクール優勝、フランツ・リストコンクール優勝の経歴を持つ。この映画には、1日4時間のピアノの練習を条件に出演を承諾したが、非常に短期間に演技の才能を開花させたとフレディ・ムーラー監督は評している。また、「ベルリン・天使の詩」「ヒトラー〜最期の12日間〜」の名優ブルーノ・ガンツがおじいさんを演じているのも魅力。

 3月19日(水)高知県立美術館ホールにて、1時20分、3時30分、5時40分、7時50分より。当日1800円、前売り1500円、シルバー・障害者・高校生1300円。 
チラシ持参の方は、当日料金から300円割引き。シネマ・サンライズ主催。お問い合わせ088‐872‐5208 吉川(ただし、PM8時以降)

長江哀歌
 アジア映画のひとつの到達点を示す作品が中国から生まれた。

 舞台は、大河・長江の上流域、三峡。万里の長城以来の国家プロジェクトと言われる三峡ダムの建設によって、多くの町や村が水没し、百万人もの人々が移転を余儀なくされる。映画では、それぞれ事情があって、消えてゆく古都を訪れた男女の物語とともに、ダムのために故郷を去らねばならない人々、ダムの建設現場に出稼ぎに来た人々の、つつましくも生の輝きを失わない暮らしぶりが感動的に描かれる。

 この作品は、結果的に2006年のベネチア映画祭金獅子賞(グランプリ)を受賞したが、世界の映画人から待たれている作品だった。と言うのは、もともとベネチア映画祭への出品が予定されていたにもかかわらず、作品の完成がコンペの応募期間に間に合いそうもなかった。しかし、映画のラッシュ・フィルムを見た映画祭の主催者が、特別に応募期間を延長してくれたので、何とかコンペに参加することができた。

 映画祭の審査委員長は、フランスの大女優カトリーヌ・ドヌーヴだったが、選考会の後評でグランプリを決めるのにさして時間はかからなかったと語っている。イギリスの「クィーン」のような有力な作品があったにもかかわらず、ほぼ満場一致で決まったことを物語っている。
監督のジャ・ジャンクーの作品には、「青い稲妻」や「プラットホーム」、「世界」などがあり、これまでもナントやブエノスアイレスでグランプリを受賞してきたが、ドキュメンタルな作風の地味さからか、一部の根強いファンはいるものの、決してメジャーと言える監督ではなかった。それは今も変わらないが、芸術性の高い作品が評価されることで有名なベネチアでの受賞により、ジャ・ジャンクーは30代の若さで世界の名だたる映画監督の仲間入りを果たしたと言える。

アフター・ウェディング
 公共ホールを使った映画の自主上映会を長くやっていると、東京や大阪の大小様々な配給会社にお世話になります。それぞれの配給会社には、一人か多くても二人の担当さんがいて、全国を相手に窓口を務めています。

 上映したい作品があって、借りられるかどうか配給会社に電話すると、担当さんについつい「今度の作品、どうですか。」と聞いてしまいます。電話で予約しようとするくらいだから、作品のことは知識としては知っているのですが、担当者がその映画をどう感じているのか、率直な意見を聞いてみたいからです。作品の紹介の仕方で、担当者の熱意や思い入れが伝わってきて、それがこちらには最もいい判断材料になります。だから、東京で興行収入がこれだけあった、などという話をいの一番にする担当者とは話が弾みません。

 付き合いの長い配給会社に、国内外の水準の高い作品を選りすぐって配給しているS社があります。配給のみならず、日本映画の製作も手がけていて、昨年は「フラガール」で国内の映画賞を総なめにしました。最近は、東京や神戸に自社専属の映画館も持っています。大ヒットはしなくても、ヨーロッパやアジアの作品を中心に優れた映画を紹介していくという姿勢に、高いポリシーを感じます。担当者の方も、映画への愛着が深く、S社で同時期に洋画と邦画を配給していて、洋画の方を借りたいが、邦画と比べてどうですかと聞けば、「比べものになりませんよ。」と言ってくれます。決して「どっちもいいですよ。」などと言わないのが有難いところです。

 そのS社が、世界の新しい才能として紹介するのが、今回上映する「アフター・ウェディング」のスサンネ・ビア監督です。高知初登場の女性監督ですが、本作はアメリカのアカデミー外国語映画賞にノミネートされ、その前に作った「しあわせな孤独」と「ある愛の風景」は、ハリウッドでのリメイクが決まっているという新鋭です。

 物語は、インドで孤児の救援活動をしているヤコブがデンマークの実業家から巨額の寄付の申し出を受けて会いに行くが、そこでひとつだけ条件を出される。それは、実業家の娘の結婚式に出席することだったが、そこで彼は思いがけない人と出会う・・というもの。 電話で問い合わせたとき、S社の担当者が「傑作です!」と断言してくれたから、まさに傑作なのだと確信しています。

 1月29日(火)、高知県立美術館ホールにて、午後3時、5時15分、7時30分から。前売り1500円、当日1800円、シルバー・障害者・高校生1300円。チラシ持参の方は、当日料金から300円割引き。シネマ・サンライズ主催。お問い合わせは088‐872‐5208吉川まで(PM8時以降)

あしたの私のつくり方
 思春期と聞いて、あなたはどんな感情を持ちますか? 甘酸っぱい感傷でしょうか? 友達の顔や、学生時代の出来事の懐かしい思い出でしょうか? もし、タイムマシンに乗って、あの時代をもう一度追体験できるとしたら、あなたはどうしますか? 僕自身について言えば、あんな自意識の肥大した、感情の浮き沈みの激しい、ピリピリと傷つきやすい時期はもう二度とごめんだ。≠ニいう気がします。ちゃっかり若さだけは取り戻したいとしても。

 「あしたの私のつくり方」は、今まさに思春期の渦中にいる二人の少女の物語。寿梨は、学校では仲間はずれにされないよう目立った行動はせず、家では離婚した両親を気づかって良い子を演じようと無理をしている娘だった。もう一人の日南子は、憧れの優等生から、いつの間にかクラスで無視される存在に変わってしまった寿梨の小中学校の同級生。高校生になって転校していった日南子に、寿梨は自分の作った人気者ヒナ≠フ架空の物語を携帯のメールで送り続ける・・・。

 主人公・寿梨を演じるのは、「神童」「君にしか聞こえない」に続いて今年3本目の主演作となる成海璃子。この作品でも、弱冠14歳ながら、高校生役で確かな演技力と存在感を見せている。監督の市川準が、寿梨が偽りの自分≠演じることを止めて、ありのままの自分を受け入れるシーンでは、思わず涙ぐんでしまつたと語っているように、その演技力は若手俳優の中でも卓抜している。日南子役は、秋元康が秋葉原で手がけていると言う音楽と芝居のユニットAKB48のメンバーの一人である前田敦子。他に、石原真理子、石原良純などが脇を固めている。

 今まさに思春期を生きている同世代の子供たち、思春期の子供を持つ親たち、かつての少年少女をいつまでもひきずっている大人たちに、ぜひ観ていただきたい作品。

 市川準の描く、本当の自分≠ニ偽りの自分≠フ間で悩み傷ついた少女たちが見出した希望とは何だったのか、スクリーンの中へ探しに行こう。

 12月19日(火)、高知県立美術館ホールにて。午後2時、3時50分、5時40分、7時30分の4回上映。前売り1500円、当日1800円(チラシ持参の方は300円割引)、シルバー・障害者・高校生は当日のみ1300円。シネマ・サンライズ主催。お問い合わせはTELo88‐872‐5208吉川まで(午後8時以降)

サイドカーに犬
 オールドファンなら、西部劇の永遠の名作「シェーン」をご記憶の方も多いだろう。アラン・ラッド扮する流れ者のガンマンが、難儀しているところを農民一家に助けられ、土地をめぐる牧童たちの悪だくみからその一家を救って去っていくという物語で、少年の目を通してヒーロー=シェーンの姿が描かれる。

 「シェーン」が男の子の目に映った憧れの男性像を描いた作品であったように、乱暴な言い方をすれば、今回上映する「サイドカーに犬」は女の子の目に映った憧れの女性像を描いた作品と言える。

 女の子は小学4年生の薫。困ったことに、夏休みが始まった日に、父親と喧嘩ばかりしていた母親が突然家を出てしまう。数日後、父親の知りあいらしいヨーコと名のる女性が、ドロップハンドルの自転車に乗って颯爽と家にやってくる。このヨーコさんは、神経質だった母親とは違って、煙草はスパスパ吸うわ、大口をあけて笑うわ、世間一般のルールにとらわれない、さばさばした豪快な女性だった。豊かな感受性を持ちながら、不仲な両親の間で、自分の正直な気持ちを表に出すことをずっと我慢していた薫にとって、ヨーコさんの言動は驚きの連続だったが、彼女は薫を子供扱いすることなく、一人の人間として薫の意思を尊重してくれた。ヨーコさんの破天荒な言動に付き合っているうちに、徐々に薫はありのままの自分でいることの楽しさを知るようになる。しかし、年齢を越えたふたりの友情も永遠に続くわけではなかった・・・。

 少年にとってのシェーンは、遠巻きに見守るしかないヒーローだったが、少女にとってのヨーコさんは、必要なときにはいつも隣にいてくれる、自分の良き理解者である。シェーンのようにクールで英雄的ではないけれども、ヨーコさんの自由奔放さは、シェーンのホームドラマ版と言っていいほど、少女の目にカッコよく映る。そして、生涯忘れることのないひと夏の想い出を彼女の心に残して去っていく。

 主演の竹内結子が、これまでの役柄にはなかった大胆かつ繊細なヨーコ像を演じ、新境地を開いている。観る人を元気にする、爽やかな一篇。

 高知県立美術館ホールで、10月16日( 火) 午後2時、3時50分、5時40分、7時30分からの4回上映。当日券一般1800円、前売り1500円、シルバー・障害者・高校生は当日のみ1300円。チラシ持参の方は、当日料金から300円割引き。お問い合わせはTEL088‐872‐5208 (午後8時以降)吉川まで。

今宵、フィッツジェラルド劇場で
 「M★A★S★H マッシュ」でカンヌ映画祭パルムドール、「ショート・カッツ」でヴェネチア映画祭金獅子賞、「ビツグ・アメリカン」でベルリン映画祭金熊賞と、世界の三大映画祭の最高賞を受賞したロバート・アルトマン監督は、昨年6月81歳で亡くなっている。

 若い頃のアルトマンは、シニカルな人間描写とブラック・ユーモアで、風刺の効いた痛烈な映画を作る人だった。晩年になってからは、多少シニカルさが薄れたとは言うものの、人間の愚かしさや滑稽さを丸ごとすくい取る卓抜な観察力で、悲喜こもごもの群像劇の名作を次々と生み出した。

 彼の遺作となった本作は、彼の好きなトーク・パフォーマンスと音楽の世界だ。実在する人気長寿番組「プレイリー・ホーム・コンパニオン」が、放送局が買収されることになり、フィッツジェラルド劇場で最後の収録の夜を迎える。番組に集った名物司会者やミュージシャンたち、マネージャーや食事係、私立探偵を気取る保安員に加え、白いトレンチコートを着て出没する謎の女などが入り乱れて、アルトマンお得意のエッジの効いた人間ドラマが展開する。

 脚本を書いたのは、30年以上この番組の司会をしているギャリソン・キーラーで、彼が自作をゆだねる相手として白羽の矢を立てたのがアルトマンだった。もちろんキーラーは、本人自身の役で出演もしている。

 この映画を撮り終えて、アルトマンはこう語っている。私に課せられた責任と使命は、文字通りの最高の素材である『プレイリー・ホーム・コンパニオン』を視覚化することで、最善の方法でできた。私は、ギャリソン・キーラーのこれまでの功績と彼のユーモアに報いようと努めたんだ。」

 キャリアの長短に関わらず、映画監督がこれほど恵まれた作品を遺作にできることは稀で、自分の仕事を心から楽しんでいたアルトマンは、また、映画からも深く愛されていたのだとつくづく思う。

 9月14日(金)、高知県立美術館ホールにて、1時40分、3時40分、5時40分、7時40分から。前売り1500円、当日1800円、シルバー・障害者・高校生は1300円、チラシ持参の方は当日料金から300円割引き。シネマ・サンライズ主催。お問い合わせTEL088‐872‐5208吉川まで(PM8時以降)

サラバンド
 スウェーデンの巨匠イングマール・ベルイマンは、今年7月で89歳になる。「野いちご」「処女の泉」「不良少女モニカ」「冬の光」など、映画史に残る数々の傑作を生み出してきたベルイマンの20年ぶりの新作であり、自ら遺作と称する作品「サラバンド」を高知でも上映します。

 長いブランクがあったのには理由がある。ベルイマン監督は実は非常に多作の人であり、脚本に関与した作品やドキュメンタリーも含めると、50本以上の映画を世に送り出している。82年に「ファニーとアレクサンデル」を発表した後、監督業はやり尽くしたとして映画界から引退宣言し、活動の場を舞台に移していたからだ。その彼が、74年にテレビ・シリーズとして撮り、後に編集して劇場公開された「ある結婚の風景」に続く作品として、久方ぶりにメガホンを取ったのが「サラバンド」である。離婚して30年目に再会した夫婦、その息子と孫娘との愛憎劇が物語の中心となるが、映画としては全く独立した作品として観ることができる。ちなみに、サラバンドとは、17・18世紀に宮廷で普及した古典舞曲のことで、中でもバッハの <無伴奏チェロ組曲第5番> が有名なのだそうだ。

 初めて、ベルイマンの映画を観たときの驚きを忘れることができない。昭和50年頃の京都だった。一乗寺にあった京一会館という映画館で、「仮面 ペルソナ」を観たのが最初だった。舞台の上で突然言語障害になった女優が、看護婦とともに別荘のある島へ療養に行き、そこで起こる二人の心理的葛藤を冷徹に描いた作品だった。あらゆる情緒を排して、人間の心の深淵を覗きこむ作風は怖いほどのもので、その容赦のなさは、あたかも人間を超越した存在=神の視点で紡がれた作品とも見えた。

 実際、牧師の次男として生まれ、幼い頃から信仰を強いられたベルイマンは、数多くの作品の中で、宗教と人間の対立、神の存在・不存在の問題を繰り返し扱っている。

 内省のゆとりを持たない、あるいは内省することを拒絶して慌しく現代を生きる私たちへの伝言=遺書として、20世紀を代表する巨匠は何を語りかけてくれるだろうか。

 7月19日(木)、高知県立美術館ホールにて、午後1時40分、3時40分、5時40分、7時40分より。当日1800円、前売り1500円、シルバー・障害者・高校生1300円。チラシ持参の方は、当日より300円割り引き。シネマ・サンライズ主催。お問い合わせは、TEL088‐872‐5208吉川まで(PM8時以降)

ヘンダーソン夫人の贈り物
 ロンドンのブロードウェイと言うべきウエストエンド地区ソーホーに、ウィンドミル劇場という閉館した劇場があった。1937年、この劇場を、当時70歳の未亡人ローラ・ヘンダーソンが買い取る。彼女は劇場経営の経験はなかったが、もともと常識にとらわれない自由な生き方を求める女性だった。ほどなく劇場支配人として、ショービジネスのプロであるヴィヴィアン・ヴァンダムを雇い、彼の提案でミュージカル・コメディーのノンストップ上演(一日4回の公演)を始め評判となる。しかし、近隣の劇場も次々と同様のショーを始めたため、たちまち経営難に陥ってしまう。

 そこでヘンダーソン夫人が提案したのは、フランスのムーラン・ルージュのようにステージで踊り子たちに裸になってもらうことだった。そんなことは、当時のイギリスの検閲で許されるはずもなかったが、夫人は知り合いだった検閲官を説得し、絵画のように動かないヌードなら構わないという許可を取り付けてしまう。これが大当たりとなり、いちやくウィンドミル劇場は名を馳せることになる。 

 もうひとつ劇場を有名にしたのは、戦時下でも決して公演を休まないことだった。ロンドン大空襲のときにも、爆撃の激しいときには踊り子たちは劇場の地下に避難して、ショーを絶やさなかった。劇場には若い兵士たちが詰めかけたが、前線に出て行く彼らにとって、ひと時の遊びもかけがえのない時間だった。実は、ヘンダーソン夫人がヌードレビューを提案した陰には、誰にも打ち明けたことのないある思い出があった・・・。

 主演のジュディ・デンチは、監督のスティーヴン・フリアーズをして、彼女はこの役のために生まれたと言わしめた名演を見せる。また、彼女の良き相棒を演じたボブ・ホスキンスとの大人の友情も見所のひとつ。二人はそれぞれ、アカデミー主演女優賞とゴールデン・グローブ助演男優賞にノミネートされた。加えて、劇中で見せる“ウィンドミル・ガールズ”たちのコミカルで華やかなミュージカルショーの数々を堪能できる。

 中高年にはぜひご覧いただきたい、観た人を元気にする大人のエンタテイメント。

敬愛なるベートーヴェン
 1824年、ウィーン。ベートーヴェンは<第九>の初演を4日後に控え、作曲にいそしんでいた。そこへ、紹介を受けた若いコピスト(写譜師)アンナが訪れるが、期待に反して女性が来たことにベートーヴェンは激怒する。しかし、やがてベートーヴェンは、アンナが自分の音楽を深く理解し、作曲の才能も合わせ持っていることに気がつく。昼夜を問わず、ベートーヴェンの< 第九 >作曲を支えることで、二人の間には、師弟愛を越えた感情が芽生えていく。しかし、難聴のためほとんど耳の聞こえなくなっているベートーヴェンは、< 第九 >初演の日、耳の聞こえない恐怖と戦いながら指揮台に立たねばならなかった。それを陰ながら支えたのもまた、アンナだった・・・。

 主催者は、実のところクラシックには全くの門外漢である。テレビのCMに使われるようなポピュラーなクラシックも曲名がわからないし、平原綾香が歌ってヒットした「ジュピター」が、ホルストの作曲した「惑星」のさびの部分に歌詞をつけたものだと、随分後になって知る始末だった。クラシックに無知でありながらこの映画を上映するのは、ひとえに監督が「太陽と月に背いて」「秘密の花園」のアニエスカ・ホランドであるからに他ならない。

 ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や貴族に仕え、その音楽はいわば公的私的行事のBGMとして作曲されたものがほとんどだったと言う。ベートーヴェンは、そうしたパトロンとの主従関係を拒否し、大衆に向けて作曲する音楽家としての姿勢を明確化したパイオニアだった。映画「敬愛なるベートーヴェン」は、音楽家=芸術家であるという立場を確立したベートーヴェンに対する、映画監督=芸術家アニエスカ・ホランドの果敢なアプローチと言える作品。ベートーヴェンの烈火のごとき創作活動は、彼女にもまた共通するものに違いない。

 劇中で、「第九交響曲」「エリーゼのために」「弦楽四重奏曲 大フーガ」等を聞くことができる。

歓びを歌にのせて」 その2
 オフシアター・ベストテン上映会で、「歓びを歌にのせて」を再度観る機会を得た。もう一度観ることを、心待ちにしていた作品だった。

 「歓びを歌にのせて」の主人公ダニエルは、一貫して“人を幸せにする音楽”を追求しようとする。音楽を芸術と言い換えてもいい。故郷の小さな村の小さな聖歌隊においてそれを試みようとするが、そんな最小の共同体においてさえ、メンバーそれぞれの抱えている“幸せを阻害する現実”に何度も突きあたる。たとえ歌う中で幸せになれたとしても、現実を変えなければ、メンバーに心の平安は訪れない、決して本当の意味で幸せにはなれない、という問題に主人公は直面する。

 彼は、むしろ普通の人よりも世事にうとい、純粋な芸術家なので、ケースワーカーのように家族の問題の調整に入ったり、警察官のように職権で仲裁したり、裁判官のように人を裁いたりするわけではない。彼にできるのは、音楽の素晴らしさをメンバーのみんなと一緒に体感することだけである。歌がもたらす喜びが、人を幸せにすると彼は確信している。それが彼の限界であり、音楽(芸術)の限界なのか?

 そうではない。みんなと一緒に歌うことの素晴らしさを体感できたことは、メンバーそれぞれの自分の抱えている問題への取り組みを徐々に変えていく。なぜか? 言うならば、一緒に歌うことで、音楽の中に素晴らしい心の領域があり、それが汲めども尽きぬ生きる喜びをもたらしてくれることにみんなが気がついたからだ。誰もが、望みさえすればそうした機会を得られ、誰にもそうする権利があることに気がつく。それは、人間としての尊厳をあらためて取り戻したこと、人と共に在ることの素晴らしさに気がついたことを意味している。それぞれのメンバーは、そこに起点(いつでも立ち戻れる起点)あるいは終点(生きる喜びの到達点としての終点)として自らの問題に向き直り、何度も挫けそうになりながら、一歩でも半歩でも現状を変えるために進みだす。合唱を通して強い連帯感が育っているので、周囲のメンバーも彼や彼女を言葉や行動で支え、問題が重く、容易に言葉にできないときには、誰かが歌で勇気づける。聖歌隊の指揮者を教会から解雇されたダニエルでさえ、逆に教会側をボイコットするというメンバーたちの勇気ある行動によって救われる。

 結局、自分の抱えている問題は、本人の心の持ちようを変えるか、何らかのアクションを起こさないかぎり解決しないのだから、心の原動力を与えたという意味で、ダニエルは最も良きケースワーカーとしての働きをしたことになる。表層的ではない、最も深い部分での解決を音楽(芸術)がもたらしたと言える。彼らには、これからも幾つも問題はおこるだろうが、人生の崇高な瞬間を何度も体感している彼らは、決して人生に幻滅することはないだろう。

 そういう意味でこの映画は、芸術にかかわる者、芸術を愛する者に深い勇気を与えてくれる作品だった。

麦の穂をゆらす風
(朝日新聞 近日掲載予定)
 友人が、仕事の関係でアイルランドのダブリンへ行ったときのこと。折りしもワールドカップの頃で、タクシーの運転手とどこのチームを応援するかという話をしたら、「イングランドの対戦相手ならどこでも。」という答えが返ってきたそうだ。そして、「しかし、イングランドに早めに負けてもらっては困る。サッカーを楽しめなくなるから。」と付け加えたそうだ。これは、反英でサッカー好きというアイルランド人気質を良く表している。

 アイルランドは、その独立までの約七百年間イギリスの植民地支配に置かれていた。特に、17世紀において、イギリスは北部を支配するため積極的にプロテスタントを移住させ、元々カトリック主流だったアイルランド人たちの土地を取り上げ、逆らう者は奴隷にしたり虐殺したりした。そして「カトリック処罰法」を制定して、アイルランド固有の言語や文化、慣習を放棄させようとした。こうした弾圧に対し、憤った民衆の間で独立の気運が高まり、1916年にはアイルランド義勇軍らによる武装蜂起が起こった。その後、テロによるイギリス要人達の暗殺や鎮圧のための治安部隊の投入など、血で血を洗う武力闘争が繰り返された。1921年、アイルランド暫定政府がイギリスと講和条約を締結したが、独立を認める内容ではなく、条約支持派と反対派の間で内戦となり、その闘争はアイルランド紛争をさらに泥沼化させた。

 今回上映する「麦の穂をゆらす風」が舞台とするのは、武力闘争が勃発した頃の1920年代のアイルランド。独立のために戦っていた家族や友人たちが、講和条約後は敵味方に分かれて争わなければならない悲劇を、渾身のリアリズムで描き出す。監督は、イギリス映画界の至宝ケン・ローチ。これまでにも「カルラの歌」「大地と自由」などで、戦争と人間の関わりを描き続けてきた彼の集大成的作品。カンヌ映画祭パルムドール賞( 最高賞 )受賞。

 3月15日(木)、高知県立美術館ホールにて。午後2時、4時半、7時の3回上映。当日1800円、前売り1500円、シニア・障害者・高校生1300円、賛助会員1000円。お問い合わせTEL088‐872‐5208 吉川まで (PM8時以降) 


(朝日新聞 近日掲載予定)
 キム・ギドク監督の映画を観ると、決まって何だこれは?という思いにとらわれる。ベルリン映画祭で監督賞をとった「サマリア」を観た後、援助交際を続ける高校生の娘に対する父親の態度が、鑑賞者の間で物議をかもした。父親は、一言も娘を責めないかわりに、交際の相手を執拗になじり、ついには自殺に追いやったり、自分が刑事という職にありながら、ついには殺人まで犯してしまうからだ。娘に対する偏愛の一途さといったものに、異常さを感じながらもついつい心を動かされてしまう。

 ヴェネツィア映画祭で監督賞をとった「うつせみ」もまた、奇妙な作品だった。人の留守宅に忍びこんでは、一人の時間を過ごしている青年が、とある家で家庭内暴力を受けている人妻と知り合い、ふたりは淡い関係のまま逃避行に出る。青年は警察につかまって暴行を受けるのだが、留置所の中で自分の気配を全く消してしまう術を身につけて抜けだし、女の元にもどって、自分の存在を気取られぬまま、女と夫を交えた3人の生活が始まる。

 キム・ギドクの描く愛は、決まってストレートな形をとらない。それはどこかゆがんでおり、異端の匂いがする。しかし、ゆがんだ愛であれ、その愛の一途さ・深さに胸を打たれないではいられない。そして、ゆがんだ愛は、当たり前の愛を異化して見せ、愛の本質をするどく突きつけてくる。

 「弓」もまた、様々な寓意を読みとれそうな作品。海に浮かぶ船の上で、老人と少女がふたりきりで暮らしている。老人は少女を宝物のように育てており、少女が17歳になったら結婚することを自分の生き甲斐にしている。少女もまた、老人に愛と信頼を寄せていたが、少女が釣り客の青年と淡い恋に落ちたことから、ふたりの関係にひびが入る。
 物語だけを見れば、シンプルで寓話的な作品のように思うが、どこにキム・ギドクの毒が潜まされているかわからない。タイトルの「弓」は、夜は老人の愛の調べを引く弦となり、昼は少女を守る武器ともなる。これも何か象徴的だ。

 イケメンの恋愛映画ではないけれど、韓国映画の裾野の広さを、この作品で実感できるかもしれない。

1月19日(金)、高知県立美術館ホールにて、午後1時20分、3時、4時40分、6時20分、8時より。前売り1500円、当日1800円(チラシ持参で300円割引き)、シニア・障害者・高校生1300円。(財)高知県文化財団助成事業。

ストロベリー ショートケイクス
(朝日新聞 近日掲載予定)
 映画の自主上映にたずさわる者にとって、12月は心穏やかならざる月である。なぜなら、年が明ければ朝日新聞高知総局主催のオフシアター・ベストテン選考会が開催されるから。これは、映画ファンの有志によって、18年中に高知の映画館以外の施設で上映された作品の邦画・洋画のベストテンを決める催し。私の主催するシネマ・サンライズでも毎月一度の定期上映を行っているので、自分の上映した作品が選考会でどういう評価を受けるのか気になるところ。もとより、優れた作品がそれにふさわしい客観的な評価を受けるところに選考会の意義があるわけだが、やはり自分の上映した作品にはそれなりの愛着があり、自分の子どもが成績をつけられて帰ってくるのを待つ親の気分になる。

 今年最後となる上映会は、現代日本映画の秀作「ストロベリーショートケイクス」。個性的だが、現代の女性たちに共通する恋や仕事の悩みをかかえた20代の女性4人の群像映画。池脇千鶴、中越典子、加瀬亮、安藤政信など、若手実力派の俳優たちが、今を生きる若者像を等身大で演じている。監督は、「三月のライオン」で海外の映画祭で高い評価を得ながら、高知での公開がなかった矢崎仁司。クリスマスシーズンの特別企画として、夜の回の上映前に、県内で活躍するピアニスト川村香絵さんの「クリスマス・クーキ(空気)」と題したミニ・コンサートもありますのでお楽しみ下さい。

 12月19日(火)、高知県立美術館ホールにて、昼は映画のみ午後1時30分、3時50分から、夜は6時30分よりミニ・コンサート、7時20分から映画。料金は、昼は当日1800、シルバー・障害者・高校生1300円。夜は、コンサート料金を含め当日2000円、前売り1700円、シルバー・障害者・高校生1500円。なお、昼夜ともチラシ持参により当日料金より300円割引き。お問い合わせ088‐872‐5208吉川(午後8時以降)

 なお、前述のベストテン選考会は、2月4日に開催されますが、参加資格は大変ゆるやかで、18年中にオフシアターの作品を10本以上ご覧になった方は参加できますので、映画ファンの皆さんはぜひお申し込み下さい。ちなみに、今年は邦画72本、洋画74本が劇場外で上映されています。詳しくは、088‐823‐5115朝日新聞高知総局まで。

美しい人
(朝日新聞 近日掲載予定)
 スイスのロカルノ映画祭は、カンヌやヴェネツィア映画祭に比べて特異な存在感を放つ映画祭と言われています。それは、開催時期が5月のカンヌ、8月上旬のヴェネツィアにはさまれているせいでもありますが、世界の新しい才能を発掘して賞を与えたり、国内では有名であるけれど海外ではほとんど知られていない監督の特集上映を映画祭の目玉としているからです。日本の監督では、「瞼の母」の加藤泰や「浮雲」の成瀬巳喜男が特集され、その存在が世界に認められるきっかけを作ったのもロカルノ映画祭でした。近くは、市川準監督が「トニー滝谷」で準グランプリにあたる審査員特別賞を受賞しています。

 「美しい人」も、そのロカルノ映画祭で評価され、最優秀作品賞及び9人の女優たち全員に主演女優賞が与えられた作品。昔の恋人との思いがけない再会、父親とのトラウマに悩む娘、障害者の父と健常者の母の橋渡しをする娘、夫の介護に疲れ不倫に走る妻、乳ガンの手術を前に不安を夫にぶつける妻など、年齢も境遇も異なる9人の女性たちの人生の様々な局面を描いた、愛情の問題を基調とする9話のオムニバス作品。ロビン・ライト・ペン、シシー・スパイセク、ホリー・ハンター、グレン・クローズなど、アメリカを代表する実力派女優たちの競演が見所。監督は、「彼女を見ればわかること」で女性が日常の中で直面する孤独や痛みを描いて、観客たちの圧倒的支持を得た俊英ロドリゴ・ガルシア。

 9つの挿話の主人公の誰かに、あなた自身の姿を重ねて、きっと共感と勇気を与えられるに違いありません。

 11月9日(木)高知県立美術館ホールにて、午後1時30分、3時35分、5時40分、7時45分から。当日1800円(チラシ持参の方は300円割引き)、前売り1500円、シルバー・障害者・高校生1300円。お問い合わせ088‐872‐5208シネマ・サンライズ 吉川(PM8時以降)

ココシリ
(朝日新聞 近日掲載予定)
 ココシリとは、中国青海省チベット高原にあり、海抜は富士山よりはるかに高い4700メートルに位置する無人地帯のこと。また、チベット語で「青い山々」を、モンゴル語で「美しい娘」を意味するという。人類未踏の地もあると言われ、想像を絶する美しい自然が広がるこの土地をも、人間の果てない欲望は侵そうとする。この地は、最高級毛織物「シャトゥーシュ」の原料となるチベットカモシカの生息地であり、20年に及ぶ密猟者の乱獲により、カモシカの数は100万頭から1万頭に激減していた。これに対し、密猟者を取り締まるため、地元有志のボランティアによる山岳パトロールが結成されたが、人数は少なく、武器も乏しく、無給で働く彼らは家族を養う生活費に事欠いていた。それでも彼らが、密猟者と戦う危険な任務に身を投じているのは、神が祖先に与え、祖先が自分たちに残してくれた自然を、次の世代に引き継がねばならないという強い使命感からだった。

 その山岳パトロールに、北京から来たジャーナリスト・ガイが加わる。彼は、パトロール隊員のひとりが密猟者に殺された事件を取材するためにやって来たのだが、飢えや寒さや高山病に苦しみながらのパトロールは、彼の想像をはるかに超える過酷なものだった。観客は、パトロールに参加したガイの目を通して、ココシリの人々と自然、チベットカモシカの無惨な密猟の実態をつぶさに体験することになる。

 この映画は事実を基にしており、ジャーナリストのガイが北京に帰って書いた記事は、反響を呼んで中国政府を動かし、その後ココシリにも自然保護区管理局が設立された。台湾金馬奨最優秀作品賞受賞。

 10月17日(火)高知県立美術館ホールにて、午後1時20分、3時、4時40分、6時20分、8時より。当日1800円、前売り1500円、シルバー・障害者・高校生は1300円(当日券のみ)、チラシ持参の方は当日料金より300円割引き。お問い合わせはシネマ・サンライズ代表 吉川修一088‐872‐5208(午後8時以降) 

ホテル・ルワンダ
(朝日新聞 近日掲載予定)
 1994年だから、そんなに古い出来事ではない。むしろ、現代史の暗部として記憶すべき事件がおきた。アフリカのルワンダで、長年続いていた民族間の争いが大虐殺に発展し、100日間で100万人もの人々が惨殺された。高知県の全人口をはるかに上回る人数である。この出来事に対し、先進国と呼ばれる国々や国連は、民族間の紛争には介入しないという立場をとり続け、自国民を国外へ救出しただけで、実質的に手を引いてしまった。

 当時、ルワンダのキガリにあるミル・コリン・ホテルの支配人だったポール・ルセサバギナ氏は、大虐殺の一部始終をこのホテルで目撃し、無差別に殺されようとしていた1200人もの人々を、人道的な立場からホテルにかくまう。武器を持たない一民間人が、武器を持ち暴徒と化した民兵集団を相手に、勇気とホテルマンとしての交渉力だけで立ち向かったのである。

 「ホテル・ルワンダ」は、このポール氏の体験を彼の目を通して描いた実話であり、実際に彼は特別顧問としてこの作品に参加している。

 アメリカでの公開当初、アカデミー賞やゴールデングローブ賞に多数ノミネートされたにも関わらず、この作品が日本に輸入される予定はなかった。しかし、この映画をアメリカで観て感動した20代の若者たちが、ぜひ日本でも公開したいとネット上で署名運動を展開し、5000通もの署名を集めて配給会社に働きかけた結果、公開が実現した。

 「ホテル・ルワンダ」を高知で上映するにあたって、県内の映画上映団体が集まって実行委員会が結成されなければならなかった。もともと、興行面では採算が危ぶまれるがゆえに、日本で公開予定のなかった作品であり、公開が決まっても一般の映画館が取り上げない作品を、どこかひとつの自主上映団体が上映するのは、リスクが大きすぎたからだ。それでも、「ホテル・ルワンダ」は観てみたい作品であり、上映する価値のある作品であるという点でスタッフの意見は一致していた。 こうした経緯をへて、9月28日この作品は高知に到着する。ぜひこの作品をご覧になって、ポールの勇気と知られざるアフリカの現実にふれていただきたい。そして、筆者のように、そっとアフリカの地図を広げて、ルワンダという国を探してほしい。

 高知県立美術館ホールにて、午後1時15分、3時25分、5時35分、7時45分より。当日1800円、前売り1500円、シニア・障害者・小中高校生1000円。お問い合わせ088‐822‐7486「ホテル・ルワンダ」を高知で上映する会事務局・田辺。 

グッドナイト&グッドラック
(朝日新聞 近日掲載予定)
 1999年、第70回アカデミー賞授賞式において、ある高名な映画監督が特別賞を受賞した。特別賞はハリウッドに大きく貢献した者に与えられる賞であり、参加者全員が総立ちになって拍手を送るのが通例であったが、会場で立ち上がった者は半数だった。それは彼が、1950年代“赤狩り”のマッカーシズムが吹き荒れた時代に、自分の保身のために仲間を密告し、友人を売った人物だったからだ。

 戦争が終結したばかりの50年代のアメリカ。共産主義の脅威を主張する共和党のジョセフ・マッカーシー上院議員率いる非米活動委員会による極端な反共主義と、思想・言論・政治活動を弾圧する“赤狩り”が戦後の人々の生活を脅かしていた。それはハリウッドの映画産業にも及び、非米活動委員会の圧力を恐れた映画会社は、共産党員及びそのシンパの疑いがある人物や、密告を含め委員会への証言を拒否した人物のブラックリストを作り、53年までに324人もの映画人が職を奪われ、映画界から追放された。その中には、「緑色の髪の少年」のジョセフ・ロージーや、後年ハリウッドに復帰して「ジョニーは戦場へ行った」を作るダルトン・トランボなどがいた。また、チャールズ・チャップリンも共産党員のレッテルを貼られ、72年にアメリカで「ライムライト」が公開されるまで入国することを禁じられていた。

 「グッドナイト&グッドラック」は、こうした状況の中、卑劣で作為的な手法で“赤狩り”を進めるマッカーシーの暴挙に敢然と立ち向かい、マッカーシズムに終止符を打つきっかけを作った伝説のニュースキャスター、エド・マローとその仲間たちの苦悩と勇気の物語である。自分の父親がニュースキャスターであった俳優のジョージ・クルーニーは、初監督作品としてこうした題材を選び、敬愛する「父へのラブレター」としてこの映画を作ったと語っている。ベネチア映画祭主演男優賞、脚本賞、国際批評家連盟賞受賞。

 9月19日(火)、高知県立美術館ホールにて、午後1時20分、3時、4時40分、6時20分、8時より。前売り1500円、当日1800円、シルバー・高校生・障害者1300円、チラシ持参の方300円割引き。お問い合わせ088‐872‐5208シネマ・サンライズ 吉川まで(午後8時以降)

“ゆったり、ほっこり、心を潤すスローシネマ特集”
   「埋もれ木」「らくだの涙」
(朝日新聞 近日掲載予定)
 今年の夏に公開される映画を見渡してみても、洋画ではやはりアメリカ映画が幅をきかせている。絶対不可能な任務にスパイが挑んだり、財宝を巡って海賊がドタバタ騒ぎを演じたり、目鼻の付いた車が仲間と友情を育んだり、どの作品も夏気分のお楽しみに満ちている。

 ハリウッドやディズニーに代表されるアメリカ映画が悪いとは言わない。それらが無くなれば、映画の楽しみはたちまち半減してしまうし、ハリウッド映画と言えども、昨年のアカデミー作品賞を人種差別の問題を正面から見据えた「クラッシュ」が受賞したように、その裾野はひとくくりにできないほど広いことも知っている。

 しかし、大方のハリウッド映画が目指す“万人の楽しめる映画”は、最大公約数的な面白さが盛りこまれているがゆえに、逆に個人に取って大切な、パーソナルな一本にはなりにくい。

 かつて、大分市にあるシネマ5というミニシアターの年頭の挨拶に、「スローシネマのすすめ」というタイトルで次のような一文が掲げられたそうだ。「スローシネマとは、テンポがゆっくりした映画ではありません。お金よりも手間ひまかけて作られ、大量宣伝されることもなく、見てすぐスカッとしたりもしないけれど、見終わってゆっくりと本当の味わいが滲み出てきて、長い間人の心に残り続けるような映画だと考えています。」

 スローシネマという概念は、ファスト・フードに対してスローフードという言葉があるように、映画を単なる消耗品として扱うことへの異議申し立てとして生まれてきたもの。ミニシアターや自主上映会を運営する者にとって、お客さんの心に末永く刻みこまれる映画を提供したいという思いは、誰しも共通している。

 シネマ・サンライズもこの趣旨に賛同し、“ゆったり、ほっこり、心を潤すスローシネマ特集”と題し、アジア映画界から選りすぐりのスローシネマ2本をお届けします。

 日本映画「埋もれ木」は、「泥の河」「眠る男」の名匠小栗康平監督が9年ぶりにメガホンを取った心優しいファンタジー。地方の小都市を舞台に、若い人、大人たちを問わず、夢を持つことの大切さがシンボリックな映像で綴られる美しい作品。この映画の“自分の夢と仲良くしよう”というメッセージは、現代を生きる若い人にとって、特に必要なものかもしれない。

 「らくだの涙」は、資金の面でドイツ映画となっていますが、ドイツの映像大学に通うモンゴル人学生ビヤンバスレン・ダバーがイタリア人の同窓生と共に、モンゴルに暮らす遊牧民の一家とらくだの深い絆を撮ったドキュメンタリーで、実質的にはモンゴル映画。卒業制作ながら、その質の高さゆえに、世界各地の映画祭に出品され、絶讃された作品。小品ながら、世界のドキュメンタリー映画史に残る傑作です。

 いずれも、お金をかけなくても優れた映画が生まれることを実感させてくれるスローシネマの代表作です。ゆったり、ほっこり、お楽しみ下さい。

白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々
(朝日新聞 近日掲載予定)
 “白バラ”のゾフィー・ショルと言われても、映画のチラシを見るまでは何のことかわからなかった。

 1943年、スターリングラードでの大敗など、ヒトラー独裁政権も末期的な局面を迎えていた頃のドイツ、ミュンヘン。ヒトラー政権を批判し、壁に「打倒・ヒトラー」のスローガンを書き、秘密裏に戦争終結を訴えるビラを配る、ミュンヘン大学生を中心とする“白バラ”と呼ばれる反戦グループがあった。ゾフィー・ショルは紅一点、兄ハンスとともに運動に参加していた。“白バラ”は決して大きな組織ではなく、恐怖と怯えが人々を支配する中で。理性と良心の回復を訴える少数の市民グループにすぎなかったが、戦時下のドイツでは、戦争に組みしないあらゆる市民運動が圧殺されていた。

 ゾフィーは、ハンスの提案で、ミュンヘン大学の構内で反戦ビラを撒こうとして逮捕される。仲間の名前を吐くよう厳しい尋問を受け、逮捕からたった5日後、流血裁判と悪名の高かった人民裁判のすえ、「大逆罪」を宣告され、即日処刑されてしまう。

 これまで“白バラ”グループの勇気ある反戦活動を描いた映画はあっったが、逮捕されてから彼らの身に起こった出来事や彼らの言動は不明のままだった。しかし、東ドイツで発見されたゲシュタポの克明な記録をもとに、監督のマルク・ローテムントは、知られざるゾフィー・ショルの最期の5日間を、真実に裏打ちされた迫真のドラマとして再現することに成功した。

 恐怖と政治的な暴力が支配する時代、ゾフィーは自分の命を投げうって戦争に反対し、仲間を守ろうとした。勇気と信仰のあるゾフィーには出来たかもしれないが、自分だったらとても無理だと誰しも思うかもしれない。自分だったら逃げ出すかもしれない。命乞いをするかもしれない。あるいは、誰かに犠牲を強いるかもしれない・・・。そんな不安と怖れに対して、ゾフィー・ショルは聡明でまっすぐな瞳を向けて言うだろう。「大丈夫。あなたは、あなたにできることをすればいいのよ。」と。そして、慈愛に満ちた笑顔でにっこりと笑うだろう。

美しき運命の傷痕
(朝日新聞 近日掲載予定)
 「ふたりのベロニカ」や「トリコロール」三部作で知られるポーランドの映画監督クシシュトフ・キェシロフスキは、心臓病のため五十四歳で亡くなった。世界中の映画監督や映画ファンから敬愛された、映画のマエストロ的存在だった。

 その彼が、ダンテの「神曲」から想を得て企画を進めていた映画の原案が三つあった。10年余りの歳月を経て、彼を尊敬する映画人たちがプロジェクトを立ち上げ、若い才能ある監督たちによって草稿は順次映画化されている。最初の一つ「天国」は、「ラン・ローラ・ラン」のトム・ティクヴァ監督により「ヘヴン」として映画化され、キェシロフスキの精神世界の継承者として高く評価された。

 「美しき運命の傷痕」は、二つ目の原案「地獄」を、デビュー作「ノー・マンズ・ランド」でアカデミー外国語映画賞、ゴールデングローブ外国語映画賞をダブル受賞するという快挙をなしとげた鬼才ダニス・タノヴィッチ監督が映画化した作品。

 映画は、22年前に父親を失った三人の姉妹とその母親が、愛に迷い傷つく精神の遍歴を描く。美しく成長した娘たちは、それぞれに問題を抱えていた。長女は夫の浮気を疑い、次女は恋人のいない孤独な日々を過ごし、三女は父親ほども年の違う大学教授と不倫を続けていた。そして、彼女たちの母親もまた、娘たちに言えないある秘密を抱えていた。

 キェシロフスキの関わった映画を、その筋立てで語っても何の意味もないかもしれない。彼の映画は、運命や偶然に翻弄される登場人物たちの固有のドラマを淡々と追いながら、スクリーンに映し出されない人と人との絆、人と外界とのつながりをも描いているからだ。怒りと破壊と分断の充満する世界にあって、キェシロフスキの映画は人間の生と死を扱いながら、人間を取り巻く世界の全体性についての深い考察に満ちている。

 三篇の遺稿は、20世紀の末期を駆けぬけたキェシロフスキから、21世紀を担う映画界の若き才能たちに託された手紙とも言える。タノヴィッチは、それに応えるがごとく、巨匠に深いオマージュを捧げながらも、原案を大胆に脚色し、自身のオリジナルな作品として見事に昇華している。

 次の三番目の手紙「煉獄」を託されるのは誰だろうか。興味は尽きない。

 6月25日(日)、高知県立美術館ホールにて、PM6:10と8:05からの2回上映。当日1800円、前売り1500円、シルバー・障害者・高校生1300円。チラシ持参の方は当日料金より300円割引。お問い合わせ088‐872‐5208シネマ・サンライズ 吉川まで(PM8:00以降)

歓びを歌にのせて
(朝日新聞 近日掲載予定)
 北欧の映画が、ときどき日本でも公開されるようになった。以前は、北欧映画と言えばスウェーデンとデンマークが主流だったらしいが、近年では映画製作のための国の基金が創設され、フィンランドやノルウェー・アイスランドでも映画が作られるようになった。現在では、これら五つの国の映画を総称してノルディック・シネマと呼ばれている。

 デンマークには、カンヌ映画祭でグランプリをとった「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の鬼才ラース・フォン・トリアー監督や、同じくグランプリ作品「ペレ」の監督ビレ・アウグストがいる。スウェーデンは、一時フリーセックス大国のように言われ、性を扱った作品群がスキャンダラスに紹介された時期もあり、また、映画の巨星イングマール・ベルイマンの深刻で芸術的な作品=スウェーデン映画とみなされた時期もあった。この二つの流れには大きな落差があったが、80年代のラッセ・ハルストレムの「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」による世界的な大ヒットで、スウェーデン映画は高い評価と一般性を獲得したと言える。他のノルディック三国の映画としては、アキ・カウリスマキの「浮き雲」(フィンランド)、「歌え!フィッシャーマン」(ノルウェー)、「春にして君を想う」(アイスランド)などが日本で公開されているが、地方ではなかなか観る機会がない。

 今回上映する「歓びを歌にのせて」は、病気によって第一線を退いた高名な指揮者と、たまたま彼の指導を受けるようになった小さな村の聖歌隊のメンバーたちのふれあいを描いた作品であり、スウェーデンで5人に一人が見たと言われるほどの国民的映画であるが、音楽を扱った他の感動作と一線を画するのは、さすがベルイマンのお国柄、嫉妬や愛憎などメンバーたちのかかえている問題が、内面に踏みこんで容赦なく描き出される点だろう。そして、卑小な存在としての人間と対置されるのが、コーラスによってもたらされる音楽(芸術)の力の大きさである。特に、スウェーデンの歌姫ヘレン・ヒョホルムの歌声は、聴く者の心をふるわせて深い余韻を残す。

 歌うことを、そして音楽を心から愛するすべての人々にご覧いただきたい作品。

 5月16日(火)高知県立美術館ホールにて、午後2時、4時30分、7時より。当日1800円、前売り1500円、シルバー・障害者・高校生1300円。チラシ持参の方も1500円。シネマ・サンライズ主催。お問い合わせは088‐872‐5208吉川まで(午後8時以降)

ブレイキング・ニュース
(朝日新聞 近日掲載予定)
 ハリウッド映画が世界を席巻しているのはいつの時代も同じことだが、今やハリウッドは本気になってアジアを、特に中国市場を狙っている。「HERO」「LOVERS」「」PROMISE」と、このところ立て続けにアジアの監督を起用したハリウッド作品が続いている。それは、「マトリックス」のようなシリーズ物に依存したり、すでに定評のあるコミックを安易に実写化したりするように、映画の企画力が衰弱していたり、あるいは、極力冒険を排して、必ず収益につながる映画でなければ作れないほど、ハリウッドの資本が肥大化していることを意味している。そうした背景があって、ハリウッドにとって最も魅力があるのが、中国を含むアジア市場なのだろう。これまでも、ハリウッドは世界中からヒット作を生み出せる才能を集めてその延命を図ってきた。近年では、「HERO」で中国のチャン・イーモウを、「MI2」で香港のジョン・ウーを、日本からは「THE JUON 呪怨」で清水祟を起用したように。

 しかし、今ハリウッドが狙っているのは、新たな才能による世界的ヒット作の創出であると同時に、アジアの監督を起用して特にアジアにハリウッド作品を浸透させ、将来的に中国を含む広範な市場を安定的に獲得することだと思われる。アジアの有能な監督たちの作った作品は、ハリウッド資本とはいえ、自国の映画に近いためアジアの民衆にとって受け入れやすい。大胆なアジア監督の起用は、アジア市場獲得のための最も有効な触媒たりうると考えているからではないか。

 今回上映する「ブレイキング・ニュース」は、ハリウッド映画ではなく香港=中国映画であるが、日本の映画界がそうであるように十二分にハリウッドナイズされた作品と言える。監督のジョニー・トーは、香港警察と大陸から来た銀行強盗団の、放送メディアを巻きこんだ激しい攻防戦を描きながら、そこに香港人の男気とプロ意識を盛りこむ。そのスタイリッシュな映像と、浪漫の香るアクションは、最もハリウッドに近い監督と言えるが、「レオン2」のようなオファーがありながらハリウッドに進出しないのは「未だにいい脚本が送られてこないから、ハリウッドに行く意味がない。」からなのだそうだ。

 香港版「踊る捜査線」とも言える本作は、台湾金馬賞最優秀監督賞・編集賞、カタロニア映画祭最優秀監督賞を受賞している。

 4月22日(土)高知県立美術館ホールにて、午後1時20分、3時、4時40分、6時20分、8時より。当日1800円、シルバー・障害者・高校生1300円。チラシ持参の方は1500円。第58回高知市文化祭共催行事、(財)高知県文化財団助成事業。シネマ・サンライズ主催(お問い合わせ 088‐872‐5208 吉川 PM8時以降)

スクラップ・ヘブン
(朝日新聞 近日掲載予定)
 この3年間、オダギリジョーの活躍がめざましい。2004年には、「あずみ」で日本アカデミー賞新人賞を受賞し、2005年には「血と骨」でキネマ旬報ベストテン助演男優賞を獲得、2006年には「メゾン・ド・ヒミコ」「忍 SHINOBI」「オペレッタ狸御殿」などで同主演男優賞に登りつめた。

 もともとアウトサイダー的な異端・異形の役柄を演じることが多かった。しかし、単に奇をてらうだけならそれで終わっていただろうが、北村龍平や崔洋一、犬道一心のような個性的な監督との出会いが、彼を主役の張れる俳優へと成長させた。

 しかし、その役柄の多彩さには舌を巻く。

 「あずみ」では、冷酷で倒錯的な美貌の剣士を演じ、「アカルイミライ」では毒クラゲを飼う鬱屈した青年を、近作「有頂天ホテル」では内気なインテリの筆耕係を演じている。今回上映する「スクラップ・ヘブン」では、警察官役の加瀬亮を復讐ゲームに誘いこんで翻弄する、無軌道な若者を喜々として演じている。一方、CMでは、切迫した局面で手持ちのカードに迷う優柔不断な男をコミカルに演じているし、世界遺産を扱った番組ではナレーターを務めている。それは、マルチな才能と言うより、自分が一つの型にはまり、固定的なイメージを持たれるのを極端に嫌っているかのようだ。

 異端であること、自由であること、そして何より、大人たちの理解を越えていること、それはいつの時代でも若者たちにとって憧れの存在だが、オダギリジョーは現代の旗手となるステップを、驚くほど短期間で駆け上がったと言える。

 監督は、朝鮮人学校の野球部員たちの青春を鮮烈に描いた「青〜chong〜」で、ぴあフィルム・フェスティバル・グランプリを獲得し、村上龍原作の「69 sixty nine」に抜擢された新鋭・李相日(リ・サンイル)監督。オダギリジョー・加瀬亮・栗山千明と同世代にあたり、今旬を迎えている三人の魅力を余すところなく引き出している。

 2月24日(金)高知県立美術館ホールにて、1時20分、3時半、5時40分、7時50分より。当日1800円、シニア・障害者・高校生1300円、賛助会員1000円。前売りはないが、チラシ持参で300円割引き。お問い合わせ(TEL088‐872‐5208吉川まで。PM8時以降)

亀も空を飛ぶ
(朝日新聞 近日掲載予定)
 昨年、イラク戦争の始まりや空爆、アメリカ軍の侵攻後のイラク情勢を生々しくルポしたドキュメンタリー「リトル・バーズ」が高知でも上映されました。ビデオジャーナリスト綿井健陽さんが、身の危険を賭して撮ったこの作品は、空爆によって一瞬のうちに子ども3人を失った父親、右足を失った若者、クラスター爆弾の破片が目に刺さり手術を受ける少女など、戦争によって家族や家や未来までも奪われたイラクの民間人たちの姿を通して、大義をふりかざす戦争の実態を鋭く告発するものでした。

 この「リトル・バーズ」が、ドキュメンタリーの手法でイラク戦争や、戦争そのものの本質を伝えてくれる作品であるとすれば、今回上映する「亀も空を飛ぶ」は、同じように戦争の不当性や残虐性を踏まえた上で、映画の持つ想像力の翼と、バフマン・ゴバディ監督(「酔っぱらった馬の時間」「わが故郷の歌」)ならではの土着的なユーモアを交えて、イラクの現実、特に子どもたちの置かれている悲惨な状況を、フィクションの側から世界に訴えようとする作品です。そういう意味では、「リトル・バーズ」と対をなす作品と言えるかも知れません。

 映画は、アメリカ軍の侵攻前夜のイラク北部クルディスタン地方が舞台。イラン・イラク戦争、湾岸戦争などで荒廃したこの地が、再び戦争の不穏な空気に包まれている。大人たちは、侵攻がいつ始まるのかその動向を知ろうと、利発な孤児のサテライトに衛星放送を受信するためのパラボラ・アンテナを買いに行かせる。また、村では子どもたちが地雷を掘り出しては、国連の出先機関に買ってもらっていたが、サテライトは危険なこの仕事の元締めもしており、子どもたちから兄貴格として慕われていた。クルド人たちは、イラク国内でフセイン政権から激しい民族的弾圧を受けていたので、サテライトには解放軍としてアメリカ軍を歓迎する気持ちがあったが、いざ戦争が始まろうとするとき、彼はその厳しい現実に直面する・・・。

 サンセバスチャン映画祭グランプリ、ベルリン映画祭平和映画賞受賞。

 上映は20日、高知県立美術館ホールにて、午後1時30分、3時20分、5時10分、7時の4回。一般1800円、シニア・障害者・高校生1300円。前売り券はありませんが、チラシ持参で300円割引き。お問い合わせ088‐872‐5208吉川まで(午後8時以降)

クレールの刺繍
(朝日新聞 近日掲載予定)
 高知在住のシンガーソングライター矢野絢子さんが、ホームグランドのライヴハウス「歌小屋の2階」で、仲間たちと2枚目のアルバム「窓の日」を作った。彼女の生い立ちを色濃く反映させながら、ドラマあり、エピソードあり、世代を越えたメッセージありの多彩な編成になっている。いっさいの飾りを排して、潔いほどにストレートな彼女のアルバムを聴いていると、もの作りにうちこむということは、その人自身の道しるべを得ることなのだと、強く感じさせられる。

 「クレールの刺繍」の主人公クレールは、17歳にして、妊娠という誰にも相談できない苦境に立たされる。それを知られまいとして、最愛の息子を亡くして世捨て人のような生活をしている刺繍職人のメルキアン夫人のもとに通い始める。しかし、もともと好きだった刺繍に没頭し、一流の職人としてのプライドを持つ夫人の指導を受けるうちに、刺繍を通して自分の活路を、つまりは未来を見いだしていく。

 彼女には、それを可能にする才能があったわけだが、才能があるからといって誰もが独力で道を切り開けるわけではない。矢野絢子さんにしても、まずは好きな歌があり、一緒に歌う仲間や、歌う場所を提供してくれた人との出会いがあり、そうした周囲の人々とのふれあいが、彼女に〈歌い人〉としての自覚を生んでいったのだと思う。ちょうど、クレールが、メリキアン夫人に刺繍の才能を見いだされ、夫人との交流を通して生きる自信を取り戻していったように。そして、崖っぷちに立っていると思われたクレールは、次第に心の平安を得て、彼女の人生にとって大切な決心をする・・・。

 クレールの生み出すビーズ刺繍は、彼女の心映えを写して、小宇宙のように美しい。カンヌ映画祭批評家週間グランプリ受賞作品。

 12月15日(木)、高知県立美術館ホールにて、18:30、20:10の2回上映。当日1800円、シルバー・障害者・高校生1300円。前売り券はありませんが、チラシ持参の方は当日料金より300円割り引きます。お問い合わせTEL088―872―5208シネマ・サンライズ 吉川(PM8:00以降)

ジョヴァンニ
(朝日新聞 近日掲載予定)
 とうとう十一月中旬には旧松竹ピカデリー(現高知シネマ・プラザ)が、来年一月には高知東宝が閉館することになってしまった。

 この頃思うのだが、映画というのは作品があれば成立するというものではない。上映する場所、映写する人、そしてそれを観に来るお客さんがいて、初めてフィルムは映画に転じることができる。どんなに優れた作品であっても、この基本は変わらない。(もちろん、家庭で観るビデオやDVDは別。)だから、フィルムと映画館と映写技師と観客は、上映を通して、一種の共同作業として同じ映画を体験するのである。設備的な問題も含め、同じ映画であっても上映される場所によって醸し出される雰囲気は違っており、それは画一的であるより多様である方が面白いから、ふたつの映画館がなくなって、一般映画の封切館がシネコンだけになってしまうのは寂しいかぎりだ。以前には、映画を選択するように、映画を観る場所を選択する楽しみがあった。

 次々と市街地の映画館が閉館していく中で、それを補うべくもないが、自主上映やコミュニティ・シネマの活動が、良かれ悪しかれ意味を増すことになる。

 今回取り上げる映画「ジョヴァンニ」は、「木靴の樹」でカンヌ映画祭グランプリを、「聖なる酔っぱらいの伝説」でヴェネツィア映画祭金獅子賞を受賞したイタリアの名匠エルマンノ・オルミ監督の新作。「木靴の樹」で、学校に通おうとする子どものために雑木で木靴を作り、そのため地主から土地を追われる小作人一家の悲運を描いたオルミが、なぜヨーロッパ全土に名をはせた大財閥メディチ家の当主ジョヴァンニを描くのか? 映画を観てみなければわからないが、オルミが着目したのは政治や経済の中枢を握ったメディチ家の歴史や権力ではなく、人の生き方にまだ尊厳とロマンがあった時代を代表する人物像や、メディチ家がその庇護者となったルネサンス文化に代表される人間賛歌の時代と、その終焉ではなかったか。

 ジョヴァンニは、戦闘においても騎士道にのっとった戦い方をしようとするが、技術革新によって生み出された鉄砲や大砲は、戦いを非人間的な大量殺戮へと変えていった。それがそのまま現代の戦争にも直結している。毎日のニュースを見ると、紛争やテロや暴動など、世界中で無慈悲で悲惨な争いが頻発しており、あたかも世界は無法地帯のように感じられる。オルミが描きたかったのは、ルネサンス期のように、今一度人間の生と死が尊厳をもって扱われることではなかったか。  本作は、作品賞・監督賞他イタリア・アカデミー賞9部門を受賞している。

 11月16日(水)、高知県立美術館ホールにて、18:15、20:05の2回上映。当日1800円、シルバー・障害者・高校生1300円。前売り券はないが、チラシ持参の方は当日料金より300円割り引き。お問い合わせTEL088―872―5208シネマ・サンライズ 吉川(PM8:00以降)

やさしくキスをして
(朝日新聞 近日掲載予定)
 イギリスからケン・ローチ監督の新作が届いた。「マイ・ネーム・イズ・ジョー」でアルコール中毒者の社会復帰の問題を、「リフ・ラフ」や「レイニング・ストーンズ」では社会階層や貧困の問題を、「カルラの歌」や「大地と自由」では戦争と個人の関わりを扱ったケン・ローチが、今回取り上げるのは日本でも急増している国際結婚の問題。

 異なる人種、異なる宗教と生活習慣を持つ男女が深く愛しあった場合、二人が結婚しようとするとき、周囲を巻きこんでどのような対立や葛藤が生じ、それをどのように克服していくかを徹底したリアリズムで描いた作品。社会派と目されるケン・ローチが取り組んだ本格的な恋愛映画としてベルリン映画祭でも話題になったが、そこはケン・ローチのこと、世界中いたるところで勃発している宗教や人種の違いがもたらす紛争や戦争に対して、個人や家族間のレベルで解決の糸口を見いだすにはどうすればいいのか、真摯に問うているのだろう。

 舞台は、スコットランドのグラスゴー。カソリックの高校で音楽を教えるロシーンは、自分の意志をしっかりと持った聡明な女性だが、ある日ふとしたきっかけで教え子の兄でパキスタン移民二世のカシムと知り合う。カシムは、クラブDJとして働きながら、将来自分のクラブを持つことを夢見ていた。二人はすぐに深く愛し合うようになるが、厳格なイスラム教徒であるカシムの父親は異教徒との結婚を許さず、また、ロシーンも厳しいカソリックの教えのもとで、カシムとのことが原因で仕事を辞めなければならなくなる。

 愛し合う二人は、お互いの背負うものと対峙して、時には激しく反発し、別れを繰りかえすが、その度に自分が相手を必要としていることを痛感する。そこで試されているのは、お互いの人柄や境遇を理解しようとするための、心と体のぶつかり合う徹底的なコミュニケーションだろう。それは、昨今のように携帯電話やメールを数限りなく重ねたところで得られないものかもしれない。

第55回高知県芸術祭参加作品。

 上映は10月25日(火)、高知県立美術館ホールで。午後2時、4時、6時、8時の4回。一般1800円(前売り券はないが、チラシ持参の方は1600円)、シニア・障害者・高校生1300円。シネマ・サンライズ主催。お問い合わせはTEL088・872・5208吉川まで(午後8時以降)

ベルンの奇蹟
(朝日新聞 近日掲載予定)
 時は、第二次世界大戦終結後の1954年、ドイツはサッカーのワールドカップに勝ち残り、決勝進出を決めた。それは、敗戦国としての失意と、ヒトラーの残した歴史的な負の遺産を背負うドイツ国民にとって、勇気と希望をもたらすものであったことは想像に難くない。同じ敗戦国の日本が、1947年の古橋広之の水泳400m自由形世界新記録に沸き立ち、1951年黒澤明の「羅生門」がヴェネツィア映画祭グランプリを受賞したことを誇らしく思ったのと同じだったろう。

 この映画の主人公で、サッカー大好き少年のマチアスにとっても同様だった。特に彼は、ドイツチームの選手ヘルムート・ラーンの〈鞄持ち〉として個人的に親しくなっていたし、不思議とマチアスが応援すると、ラーンはここ一番のときに得点するのだった。

 しかし、戦争の傷跡は町のいたるところに見受けられ、また、人々の心の中に生々しく刻まれたままだった。突然、マチアス一家の前に戦死したはずの父親が帰ってきた。しかし、ソ連で長い抑留生活を送っていた父は、回復できないほどの重い失意をかかえていた。マチアスは父を気づかうが、鬱屈をかかえる父は、逆に彼のサッカーを禁じてしまう。ドイツのワールドカップ決勝進出が決まったのは、そんなときだった。尊敬するヘルムートを応援したいマチアスは、思いあまって家出してしまう・・・。はたして、決勝戦の行方はどうなるのか? マチアスと父は、親子の絆を回復することができるのか? 

 ロカルノ映画祭観客賞受賞の感動作。監督のゼーンケ・ヴォルトマンは元サッカー選手で、ワールドカップのサッカーシーンには迫真の臨場感がある。

 9月16日(金)、高知県立美術館ホールにて、午後1時40分、3時50分、6時の3回。当日1800円、シニア・障害者・高校生1300円。賛助会員1000円。前売り券はありませんが、この映画のチラシ持参の方は当日料金より200円割引。お問い合わせ088‐872‐5208吉川まで。(PM8時以降)

カナリア
(朝日新聞 掲載)
 昔見た潜水艦の映画の中で、艦内でカナリアが飼われていたことが子ども心にも不思議だった。その訳は、映画を見ているとやがてわかるようになっていて、密閉状態の艦内で危険なガス漏れや酸素不足があった場合、カナリアはひどく敏感で弱い生き物なので、騒々しくさわぎ立てたり死んだりする。乗員の身の危険をいち早く感知する簡易警報器として飼われていたのだ。同じ理由で、炭坑を扱った映画やドキュメンタリーでも坑内で飼われているのを時々見かける。

 95年、地下鉄サリン事件後、警察がオウム真理教の施設サティアンで強制捜査を行った際にも、鳥かごに入れられたカナリアが先頭に掲げられていた。

 この映画は、オウム真理教の事件そのものを扱った映画ではないし、また、カルト教団の社会的な意味や、それに傾倒していった信者たちの心理を問おうとするものでもない。

タイトルが示すとおり、直面する危機にいち早く警鐘を鳴らすカナリアになぞらえ、大人たちの勝手な都合によって、否応なく社会の歪みや軋みの最前線に立たされた子どもたちの怒りや哀しみを描いた作品だ。

 主人公は、母親に連れられてカルト教団〈ニルヴァーナ〉の施設で妹と一緒に数年を過ごした12歳の少年。教団が引きおこしたテロ事件によって二人は警察に保護され、関西の児童相談所に預けられる。祖父が引き取りに来るが、4歳下の妹だけを連れて行く。母親は、地下に潜伏したままだ。やがて少年は、児童相談所を脱走し、妹を祖父の手から取り戻し、母親を捜し出すためひたすら東京へと向かうが、道すがら親から精神的虐待を受け自信を喪失している一人の少女と出会う。

 もちろん、少年と少女には魅力的な名前があるが、社会的な事件や家庭の崩壊によって、子どもたちが当然受けられるべき大人からの庇護を受けられなくなり、社会に放り出されたときどうなるのかという、きわめて今日的な普遍性を持った作品だ。挿入歌として使われる往年の名曲「銀色の道」が心にしみ入り、子どもたちの名演が強烈な印象を残す。監督は、「月光の囁き」「害虫」「黄泉がえり」で独自の世界を切り開いてきた新鋭塩田明彦。

 8月27日(土)、高知県立美術館ホール。午後二時、四時半、七時の3回。当日1800円、シルバー・障害者・高校生1300円、前売りはありませんが、チラシ持参の方は1600円。お問い合わせ088‐872‐5208吉川(PM8時以降)

故郷の香り
(朝日新聞 2005年7月19日掲載)
 人にとって想い出とはどういう意味を持つのだろう? ともすると想い出は懐古趣味的なものと思われがちだが、本当に大切に心の中にしまわれている想い出は、人を後ろ向きにすることはないと思う。想い出に心を温められ励まされている人は、その想い出に恥じないよう今を生きようと考えるのではないか。 

そして想い出は、エピソードであると同時にひとつの風景でもある。それは、あなたにとって大切な想い出をひとつ思い浮かべてもらうだけで、すぐにわかることだ。交わされた言葉、その場所の空気、揺れ動いていたあなたの気持、それらがひとつになって想い出の情景をつむぎ出している。美しい想い出を持つことは、心に美しい風景をひとつ持つことである。

 北京の役所に勤めるジンハーは、10年ぶりに山あいの村に帰郷する。大学へ行って以来ずっと足が遠のいていた故郷で、彼は思いがけず初恋の人ヌアンに再会する。変わらぬまっすぐな瞳に見つめ返され、彼の心に甦るのは、懐かしくて切ない想い出の数々だった。自分の運命を引き受けて、けなげに生きる彼女の姿に、ジンハーの心は揺れ動く・・・。

 ひとつの想い出を、いつまでも心の中に温め続けて生きることは、幸せなことだろうか? それとも、想い出に何の拘泥も持たずに生きていける方が幸せなのだろうか? また、同じ体験を共有していても、想い出との付き合い方は、男女によって違っているかもしれない。この映画を観て、そんなことをあれこれ考えてみたい。

 原作は、中国でノーベル文学賞に最も近い作家と言われる「紅いコーリャン」「至福のとき」のモォ・イエン。監督は、「山の郵便配達」「ションヤンの酒家」のフォ・ジェンチイ。この映画は、東京国際映画祭グランプリを獲得し、今やアジアの名優となりつつある香川照之が、ヌアンの夫を演じて優秀男優賞に輝いた。

 7月22日(金)、高知県立美術館ホールにて午後2時、4時、6時、8時から。当日1800円、シニア・障害者・高校生1300円。前売券はありませんが、チラシ持参の方は当日料金より200円割引き。お問い合わせTEL088−872−5208吉川(PM8時以降)

運命を分けたザイル
(朝日新聞 2005年6月21日掲載)
 イギリス人の勇敢さと冒険心には、ひそかに敬意を抱いている。17年程前になるが、高知へイギリスからうら若い英語指導助手がやってきた。半年ほどして、異国の地で心細い思いをしている彼女の支えとなるため、フィアンセも日本にやってきた。どうやって来たか?何と彼は自転車でイギリスから日本まで来たのである。もちろん海を渡るときは飛行機を使い、中央アジアの危険な山岳地帯では一部列車を利用したらしいが、基本的には自転車で、何度もパンクを繰りかえしながらユーラシア大陸を踏破してきたのである。そんな彼は、筋骨たくましいマッチョではなく、ひょろりと背の高い、どちらかと言えば寡黙で思索的な青年だった。何の変哲もないイギリス青年が、そんな大胆な冒険をやらかすことに、随分驚かされた。

 今回上映する「運命を分けたザイル」もまた、イギリス人の不屈の精神を描いた作品である。若き登山家ジョーとサイモンは、前人未踏のアンデス山脈の難関シウラ・グランデ峰の西壁に挑戦し、幾多の困難のすえ登頂に成功する。しかし、下山の途中、高度6400mで二人は遭難し、滑落したジョーは片足を骨折、バランスを崩して氷の絶壁で宙づりになってしまう。遙か下方には、クレバスが大きく口を開けており、一本のザイルだけが二人を結んでいた。このままでは二人とも助からないと判断したサイモンはある決断をする・・・。

 この映画を、単純に冒険のドラマと呼ぶことは出来ない。厳しい自然と不意のアクシデントに見舞われ、極限状況に置かれたときの人間の心理がつぶさに描かれているからだ。原作は、世界中でベストセラーになったドキュメンタリーの傑作「死のクレバス アンデス氷壁の遭難」。

 撮影は、実際の遭難現場に近いアンデス山中にベース・キャンプを張り、本物の雪嵐の中、また、本物のクレバスに入って行われた。その結果、二人と共に雪山を体験するような、従来の山岳映画の常識をくつがえす臨場感あふれる映像がとらえられた。スタッフにとっては、二人のドラマを細部まで忠実に再現し、この映画を完成させるプロジェクトそのものが、危険と隣り合わせの果敢な冒険だったに違いない。

 6月28日(火)高知県立美術館ホールにて、14:00、16:00、18:00、20:00の4回上映。当日1800円、シルバー・障害者・高校生1300円、ICS会員1300円(当日入会可)。前売券の販売はありません。お問い合わせは、TEL088−872−5208シネマ・サンライズ 吉川(PM8:00以降)。

堕天使のパスポート
息子のまなざし
(朝日新聞 2005年5月18日掲載)
 新年度が始まり、四月に自分のお子さんを進学や就職で県外に送り出したという親御さんも大勢いらっしゃると思います。子どもの一人暮らしに思いを巡らし、心配してみたり、寂しさをつのらせる方も多いのでは?

 「堕天使のパスポート」(イギリス)の主人公シェナイもまた、一人暮らしの心細い状況の中で健気に生きる少女だった。トルコからの移民である彼女は、ホテルのメイドとして働きながら、ロンドンの下町で暮らしている。誰も身寄りがいないばかりか、パスポートを持たない不法滞在者であるシェナイは、政府から何の庇護も受けられず、また、不法滞在者であることを理由に、雇用主から不当な条件を突きつけられもする。そんな彼女の回りにいるのは、同じホテルで夜勤係をしているナイジェリア人のオクウェ、ホテルに出入りする娼婦のジュリエット、中国難民のグオイなどいずれもマイノリティの人々ばかり。

 シェナイには、従姉妹のいるニューヨークへ行きたいという夢があった。それが彼女の唯一の希望だった。そのために、自分の働くホテルで秘密裏に行われている非合法な取引に加わって、パスポートを手に入れようとする。守護者としてシェナイを暖かく見守ってきたオクウェは、死の危険と隣り合わせの闇取引から彼女を守るため、ジュリエットやグオイの協力を得て、決死の賭けに出る。

 愛らしく無垢な魂を持ったシェナイを、「アメリ」「ロング・エンゲージメント」のオドレイ・トトゥが演じている。シェナイの危険な行動に、同じ年頃の子どもを持つ大人たちは心を痛めると同時に、アンダーグラウンドな世界に呑みこまれぬよう願わずにはいられないだろう。

 監督は、「ハイロー・カントリー」でベルリン映画祭監督賞に輝いたスチーブン・フリアーズ。「キリング・フィールド」でアカデミー最優秀撮影賞を受賞したクリス・メンゲスのカメラが、ロンドンの片隅で暮らす移民たちの実態をリアルに写し出す。英国インディペンデント映画祭作品賞・監督賞・脚本賞・主演男優賞受賞。

 「堕天使のパスポート」が未来を自分の手でつかもうとする少女の物語なら、併映の「息子のまなざし」(ベルギー・フランス)は未来を見失った少年の物語だ。ある犯罪の加害者となったフランシスは、偶然にも自分の入所した職業訓練所で被害者の父親であるオリヴィエに出会う。立場こそ違え、事件を通して心を閉ざし、他人を受け入れられなくなっていたフランシスとオリヴィエ。はたして、運命的な出会いは、二人の魂にどんな変化をもたらすのか? 

 監督は、「イゴールの約束」や「ロゼッタ」でフィクションとノンフィクションの垣根を楽々と飛び越えてしまったジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ。カンヌ映画祭主演男優賞。

 上映は5月22日(日)高知県立美術館ホールにて、14:00と18:00が「息子のまなざし」、16:00と20:00が「堕天使のパスポート」。当日2000円、前売り1800円、シルバー・障害者・高校生1600円。「堕天使のパスポート」のチケットで、2本ともご覧になれます。お問い合わせは、TEL088−872−5208シネマ・サンライズ吉川まで(PM8:00以降)

ビハインド・ザ・サン
(朝日新聞 2005年4月13日掲載)
 10年以上前になるが、作家の大江健三郎さんが土佐市の文化ホールで講演会を行ったことがある。内容は、ほとんど記憶から遠ざかってしまったが、大江さんは健康のために毎日プールで1kmほど泳がれているそうで、そのスポーツクラブで、会員のフォームの矯正のために、泳いでいる姿をビデオで撮って希望者に見せることを始めたそうだ。しかし、大江さんはあえて自分のビデオを見ようとしなかった。「(真実を知ることよりも)人間が生きていく上では、幻想が必要な場合がありますからね。」と言って、会場を大いに笑わせてくれた。

 「ビハインド・ザ・サン」の主人公トーニョにとって、幻想=希望を持つことは、過酷な運命に抗して生き残るために、どうしても必要なものだった。20歳の若者トーニョのブレヴィス家と、フェレイラ家とは土地の利権を巡って長年血で血を洗う争いを繰り返していた。兄を殺されたトーニョは、父親の命令でその仇を討つが、今度は自分が狙われる番だった。若くて純粋な彼は、復讐の連鎖に疑問を感じていたが、父親の絶対的な権力のもと、自分に課せられた宿命に逆らうことを潔しとしなかった。そんな彼が、巡業のサーカスの美少女クララと出会い、初めての恋に落ちる。自由な彼女の生き方は、トーニョに因習の外の世界へと目を開かせる。クララは、彼が新たな別の人生を選択するための唯一の希望だった・・・。

 ベルリン映画祭でグランプリを受賞した「セントラル・ステーション」の監督ウォルター・サレス監督の新作。ブラジルの荒涼とした大地と抜けるような青空を背景に、憎しみと恋、血と抗争の物語が鮮烈に描かれる。人間の営みに対する寓意に満ちた神話的世界。「クアトロ・ディアス」「シティ・オブ・ゴッド」「モーターサイクル・ダイアリーズ」と、近年のブラジル映画の隆盛が本物であることを示す秀作。主演は、ピープル誌で“世界で最も美しい50人”のひとりに選ばれた美形スター、ロドリゴ・サントロ。さわやかな笑顔が、日本でも好感を呼びそうだ。ヴェネチア映画祭若手審査員賞受賞。

4月16日(土)高知県立美術館ホールにて18:20、20:00の2回上映。前売り1500円、当日1800円。シルバー・障害者・高校生1300円。お問い合わせ088−872−5208 シネマ・サンライズ 吉川(PM8:00以降)まで。

父、帰る
(朝日新聞 2005年3月15日掲載)
 「父、帰る」という邦題を見て、菊池寛の戯曲を思い浮かべる人も多いだろう。しかし、カルチャー・ショックを感じそうなほど、戯曲とこのロシアの新人監督の映画とは異なっている。

 菊池版の父は、放蕩のかぎりを尽くしたあげく、女と出奔してしまう。一時は、サーカスの興行師のようなことをして羽振りのよかった時期もあったが、事業に失敗し、20年後落ちぶれ果てて家族のもとへ帰ってくる。戯曲は、家族を捨てた身勝手な父親に対する憎しみを親子の情愛によって乗りこえる、いかにも日本的な人情話である。

 これに対し、映画の方はもっとドライでミステリアスだ。映画の父も、12年間失踪した後、突然家に帰ってくるのだが、なぜいなくなったのか、その間何をしていたのか、なぜ今になって帰ってきたのか不明のままだ。何を考えているのかわからない、非常に謎めいた人物である。この父にも、菊池版のように二人の息子がいるのだが、父親が何も語ろうとせず、傲慢にふるまえばふるまうほど、子どもたちは家族を捨てたことを憎む気持ちと、帰ってきた父を慕う気持ちとの葛藤に苦しむことになる。この父子のディスコミュニケーションは、見ようによっては、親が親として機能しないことで様々な家族間の問題を生んでいる現代の家族の有り様を象徴するかのようで、今日的だ。

 傲慢な父親は、強引に息子たちを湖への小旅行に連れて行く。それは、初めての父子水入らずの旅だったが、そこで父親が子どもたちにもたらしたかったものとは・・・。

 長男を演じたウラジーミル・ガーリンは、映画の完成後、ロケを行った湖で水難事故で亡くなった。長編デビュー作にして、ヴェネツィア映画祭新人監督賞のみならず金獅子賞(グランプリ)を獲得したアンドレイ・ズビャギンツェフは、授賞式のスピーチで両賞をガーリンに捧げ、追悼の意を表した。

 ロシア映画が、本来持っていた芸術性に回帰したと言われる秀作。人物をデフォルメするように配した、奥行きのある映像が美しい。キネマ旬報洋画部門第3位。

 3月20日(日)18:10と20:03の2回上映。高知県立美術館ホール。シネマ・サンライズ主催。当日1800円、前売り1500円、シルバー・障害者・高校生1300円、賛助会員1000円。お問い合わせは、TEL088−872−5208吉川まで(PM8:00以降)

白百合クラブ 東京へ行く
(朝日新聞 2005年2月10日掲載)
 厳しい寒さが続きますが、せめて映画の中で、一足お先に暖かい南の島へ出かけてみませんか?

 今回上映する「白百合クラブ 東京へ行く」は、終戦の翌年、石垣島白保で若者たちにより結成され、メンバーの平均年齢が70歳を越えた今でも公演活動を続けている楽団“白百合クラブ”を、「ナビィの恋」「ホテル・ハイビスカス」の中江祐司監督が、どうしても撮りたくてたまらないという想いで作り上げたドキュメンタリー。

 クラブのメンバーは、戦後の何もない時代には、マンドリンを瓢箪で作り、バイオリンの弦は墜落した飛行機のワイヤーで、衣装はパラシュートの布で手作りしたそうだ。彼らの歌や踊りは、戦後の荒んだ空気をなごませ、石垣島では人もうらやむような有名バンドだったらしい。彼らが歌うのは民謡ではなく、自作曲もあるけれど、メインはいわゆる昭和歌謡。「さよなら港」「桑港のチャイナタウン」「ラバウル小唄」など当時の流行歌を、石垣白保調のアレンジで歌って踊る。そこには南国独特の陽気な開放感が醸し出される。

 タイトルにあるように、中江監督が彼らを沖縄出身のバンドTHE BOOMに紹介し、白百合クラブに魅了されたTHE BOOMが彼らを東京に招いて、公演をプロデュースすることになる。映画では、白百合クラブの成り立ちや公演に向けての練習風景が紹介されるが、THE BOOMや観客を巻きこんでの大らかで楽しい東京ライブの模様がこの作品の圧巻である。

 気取らず気負わず、自然体で音楽を楽しみ、聞く者に楽しさを分け与えてくれる彼らの姿は、高齢者のみならず、あらゆる年代に生きることの素晴らしさを伝えてくれそうだ。

 この映画は、フィルム素材ではなくビデオで撮られた作品であり、東京の(財)デジタル・コンテンツ協会が機材提供している、DVDより高品位のテジタル・コンテンツを使ったプロジェクターで上映します。音楽映画なので、広いスペースではなく、ライブハウス的な会場で、膝をつきあわせて観ていただく方が親密感が湧いていいかもしれません。上映は、2月13日(日)喫茶「メフィストフェレス」(高知市大橋通西詰め)3Fホールで、11:00、13:00、15:00、17:00、19:00の5回上映。当日券のみで、一般1500円、シルバー・障害者・高校生1300円(いずれもドリンク付き)お問い合わせは、088−872−5208シネマ・サンライズ 吉川(ただし、PM8:00以降)もしくは、088−823−7870メフィストフェレスまで。

ドリーマーズ

 40代・50代のヨーロッパ映画に魅了されて青春時代を謳歌した世代には、「暗殺の森」や「ラストタンゴ・イン・パリ」のイタリアを代表する巨匠ベルナルド・ベルトルッチ監督の名前には特に感慨深いものがあるかもしれない。今回上映する「ドリーマーズ」は、そのベルトルッチが「ラストタンゴ・イン・パリ」以来30年ぶりにパリを舞台にして描いた青春映画。

 実際、ベルトルッチは18歳でパリを訪れ、シネマテークでゴダールの「勝手にしやがれ」やトリュフォーの「大人は判ってくれない」などフランス・ヌーベルバーグの鮮烈な作品群に出会い衝撃を受けた経験を持つ。そのベルトルッチが、1968年のパリを舞台に、シネフィルとして自由で甘美で放埒な青春を過ごす双子の姉弟イザベルとテオ、彼らがシネマテークで出会う“パリのアメリカ人”マシューを描くわけだから、ベルトルッチが自身の姿を投影した彼らの姿を通して、観客もまた映画を観ることが日常の重要なイベントであり、映画にのめりこんでいた自分の青春時代と重ね合わせることができるに違いない。もっとも、ベルトルッチの映画はどれも濃密な官能性と退廃に彩られているので、どこまで共感できるかはわからないが・・・。

 三人の個性的な若者たちには、「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」のマイケル・ビット、“ゴダールの再来”と言われたフィリップ・ガレルの息子ルイ・ガレル、「雨の訪問者」の女優マルレーヌ・ジョベールの娘エヴァ・グリーンが選ばれ、才能ある若者たちの神秘性と美しさ、それと裏腹な脆さを体現している。

 また、映画の中で「勝手にしやがれ」や「突然炎のごとく」「暗黒街の顔役」など、ヌーベルバーグの代表作と30〜50年代にかけてのハリウッド黄金時代の作品が引用され、オマージュが捧げられているのも見所になっている。 

 上映は高知市高須の県立美術館ホールで25日(火)午後2時20分、4時40分、7時の3回。一般1800円(前売り1500円)、シニア・障害者・高校生1300円。

油断大敵
(朝日新聞 2004年12月15日掲載)
 最近、中高年を主役にした映画が増えている。「北の零年」の吉永小百合、「透光の樹」の秋吉久美子、「血と骨」のビートたけし、そして「東京原発」や今回上映する「油断大敵」の役所広司など。リストラや過労死・自殺など、取り巻く環境の厳しさを思えば、中高年にエールを送る作品が増えるのは当然のことなのかもしれない。

 その中でも、役所広司の活躍は際立っている。近年では、「金融腐食列島 呪縛」や「突入せよ!「あさま山荘」事件」などの社会派リアリズム映画、「どら平太」のような娯楽時代劇、「赤い橋の下のぬるい水」のような異色作に出演し、ことごとく日本アカデミー賞の主演男優賞を受賞している。「突入せよ!「あさま山荘」事件」に至るまで、彼は何と7年連続で日本アカデミー賞主演男優賞を獲得しているというから驚きだ。個人的な偉業のみならず、過去には「うなぎ」でカンヌ映画祭パルムドールを日本にもたらし、「Shall we ダンス?」では国内大ヒットのみならず、アメリカでの日本映画の興行記録を塗り替えるなど、日本映画の振興に大いに貢献している。

 その彼が、「カンゾー先生」で同じく日本アカデミー賞主演男優賞の柄本明と共演するのが本作だ。柄本もまた、映画出演数83本にのぼり、オカマバーのママから「ゼブラーマン」の仇役カニ男まで演じ分けてしまう個性派の怪優だ。これまでも、黒沢清監督作品「カリスマ」や「ドッペルゲンガー」などで二人が共演する機会はあったが、事実上柄本は脇役で、本作のような四つに組んでの演技合戦は初めてではないか。役所の役柄は、やもめの刑事関川仁、柄本は仁の実直な人柄にひかれて、彼にあらゆる泥棒の手口を教える伝説のスリ“ネコ”。二人は敵対する関係にありながら、長年にわたる不思議な人間関係を築き上げていく・・・。

 何かと世相の暗い昨今だが、奇をてらった演出なし、CGなし、流血なしのヒューマン・コメディで、年の暮れを笑って締めていただきたい。

 12月16日(木)高知県立美術館ホールにて、13:30、15:30、17:30,19:30の4回上映。当日1800円、シルバー・障害者・高校生1300円、前売り1500円。

イギリス・アイルランド映画特集
「マグダレンの祈り」「私が愛したギャングスター」
(朝日新聞 2004年11月16日掲載)
 人はなぜ映画を作るのか? 純粋な楽しみのために作られる映画もあれば、周到にお金儲けのために作られる映画もある。しかし、作り手のモチベーションが、社会に対して明確なメッセージを発信するためであるとき、私たちは改めて問い直すことになる。はたして映画に何ができるのか、と。

 1964年、アイルランドのダブリン。世界中がビートルズに熱狂し、女性解放のためのウーマン・リブ運動が台頭を始めた頃、カトリックのマグダレン修道院では、性的に堕落したとみなされた女性たちが、次々と矯正という名目で集められ、人間性を剥奪するような条件下で強制労働に従事させられた。1996年にこの修道院が閉鎖されるまで、延べ3万人の少女たちが、宗教的美名の下に過酷な労働を強いられた。その事実を報じるTVドキュメンタリーを見たイギリスの名優にして映画監督でもあったピーター・ミュランは、自身がカトリックの家庭で育ったにも関わらず強い衝撃を受け、そのドラマ化に挑んだ。まわりの少年たちを惑わせるという理由でマグダレンに送られた孤児や、レイプされた少女、未婚の母となった少女らを主人公に、閉ざされた状況の中でも、最後まで希望を失わず、生きぬこうとする姿を迫真のドラマとして構築した。

 この映画がヴェネツィア映画祭でグランプリを獲得したとき、カトリックの総本山ヴァチカンは、真実ではないと激怒したが、作品の衝撃がすさまじい勢いで広がり、その評価が次第に高まるにつれ、反面教師としてこの映画をぜひ見るように、と態度を豹変させたそうだ。

 映画は何のために作られるのか? 映画は、社会に対して何らかの力を持ちうるのか? この作品は、その証左のひとつと成りうるかもしれない。

 イギリス・アイルランド映画特集として、同じくダブリンを舞台に、アカデミー賞俳優ケビン・スペイシーを主演に、実在した快盗の活躍を描いた痛快作「私が愛したギャングスター」と2本立て。

 11月18日(木)、高知県立美術館ホールにて。前売り1500円、当日1800円、シルバー・障害者・高校生は1300円。「マグダレンの祈り」は、15:20と19:20、「私が愛したギャングスター」は13:30と17:30のそれぞれ2回上映。

第16回高知アジア映画祭

 高知市と中国の蕪湖市とは、1985年に友好提携を結び、行政や民間レベルで活発な国際交流が行われるようになり、1994年には高知県と安徽省が友好提携を行い、訪問団の派遣や研修生の受け入れなど、広範な交流が続けられてきました。

 毎年開催される高知アジア映画祭では、高知県と安徽省の友好提携10周年を祝う記念行事の一環として、今年は3本の中国映画を特集しました。

 「ションヤンの酒店」は、「山の郵便配達」も記憶に新しいフォ・ジェンチィ監督の最新作。急速な都市化の進む重慶の下町を舞台に、鴨の首が売り物の屋台を営む女性ションヤンと、様々な問題をかかえたその家族の姿を、情感豊かに描き出した秀作。「ヘブン・アンド・アース」(フー・ピン監督)は、安徽省出身の女優ヴィッキー・チャオも出演している、シルクロードを舞台にしたスペクタクル大作。紀元7世紀の中国、長年皇帝の密使として働いてきた遣唐使来栖は、帰国許可と引き替えに唐軍の英雄李を暗殺することを命じられた。しかし、皇帝に献上する黄金の仏塔(パゴタ)を運ぶキャラバン隊を護衛する李と行動を共にするうちに、来栖と李には友情が芽生えてしまう。日本の中井貴一が、世界デビューを果たした作品としても話題になった。ロカルノ映画祭で銀豹賞を受賞した「リトル・チュン」(フルーツ・チャン監督)は、香港の中国返還を、不法滞在している9歳の少年の目を通して描いた作品。香港版「小さな恋のメロディ」。

ぼくセザール 10歳半 1m39cm
(朝日新聞 2004年10月7日掲載)
 昔、TVアニメーションの「アルプスの少女ハイジ」を初めて見たときの驚きを忘れることができない。幼くして両親を亡くしたハイジは、5歳のときおばさんの手でアルムの山小屋に一人で住むおじいさんに預けられる。シリーズはこのエピソードで幕をあけるのだが、おじいさんの住む山小屋の天井の高さや、頑固で偏屈だと噂されるおじいさんに出会ったときの怖そうな印象、初めて見る山羊の大きさや愛らしさが、まさに5歳の子どもの目と感性で描かれていたからだ。児童文学に拮抗するアニメーションを作ろうとする、作り手たちの志の高さと同時に、アニメーションにもカメラ・アングルというものがあることを強烈に印象づけられた。

 そんなことを思い出したのは、今回上映する映画「ぼくセザール 10歳半 1m39cm」もまた、タイトルどおり1m39cmという子どもの身長に合わせたカメラ目線で、子ども同士の世界や大人の世界を描いた作品だからだ。主人公セザールは、シャイで好奇心いつぱいで、ちょっと太めの普通の男の子。大人にとっては何でもないように思えることでも、子どもにとって初めての体験はスリルや驚きや発見の連続かもしれない。学校での出来事や初めて行く習い事、田舎でのお泊まりなど、セザールの日常が“プチ冒険”として子ども目線でとらえられ、観る者に子どもの頃の気分を思い起こさせてくれる。そして、ふとしたことで父親に反旗をひるがえしたセザールは、両親には内証で、親友モルガンのまだ見ぬ父親を捜して、大好きな少女サラと三人で、パリからロンドンへの一大冒険旅行に出かけてしまう・・・。

 フランスから届いた子ども心いっぱいのコメディは、大人たちにも微笑みと勇気を分けてくれそうだ。 

みなさん、さようなら
(朝日新聞 2004年9月25日掲載)
 人が、人生の終末期を考え始めるのは、幾つになった頃からだろう。社会的には、仕事や家庭、個人的には健康や人生設計などによって左右されるだろうから、個人差は大きい。心と体の老化は着々と進行していても、日々の雑事に追われて、永遠に生きられるかのような日常を人々は生きている。逆に、死への憂いを忘れられるからこそ、その日を生きられるとも言える。

 この映画の主人公レミに訪れた終末期も、悪性の病気という形で突きつけられる。大学で歴史学を教えながら、享楽的で奔放な人生を生きてきた彼は、何人もの愛人を作って妻とも離婚し、父親の生き方を嫌って息子は彼に寄りつかない。しかし、不仲ではあるけれども、彼の病状を知り、彼を気遣う元妻ルイーズの頼みで、ロンドンの証券ディーラーとして働くセバスチャンが、フィアンセを伴ってモントリオールに帰ってくる。「友人を呼んで楽しい病室にしてあげて」という母の願いを聞き入れた彼は、証券ディーラーとしてのドライな手腕を発揮して、父の〈幸せな最期〉の演出家になろうと決意する。そして、世界中に散らばっていたレミの友人や元愛人たちを集めるのだった・・・。はたして、頑固でわがままで毒舌家だったレミの人生の終焉は、どのようなものになるのだろう。

 この映画で描かれるのは、レミという個人の終焉ばかりではなく、彼の体験してきたイデオロギーや文化、彼と同世代の人々の生き方そのものが総括される。それぞれ個性的な登場人物のセリフは、シニカルであけすけだが、本音のあふれる文明批判になっている。この映画が、アカデミー外国語映画賞、カンヌ映画祭脚本賞を始め、国際映画祭で25もの受賞歴があるのは、人生の終焉を迎えた人とそれを看取る人々のドラマの深さと、その人を形作ってきた社会に対する鋭い文明批判との融合が、高く評価されたからだろう。

我が故郷の歌
(朝日新聞 2004年8月26日掲載)
 オリンピックの開会式を見ていると、世界にこんなにも自分の知らない国があったのかと驚かされる。入場行進で名前を聞いたこともないような国々が次々と登場して、ふだん私たちの目や耳に入ってくる世界のニュースが。いかに大国や先進国に限定されたものであったかを痛感させられる。そしてまた、世界には自らの国家を持たない人々も存在するのである。

 今回上映する「我が故郷の歌」をより深く理解するためには、”国家を持たない最大の民族”といわれるクルド人の置かれている状況を知っておいた方がいいかもしれない。

 クルドの人々は、トルコ・イラン・イラク・シリアなどのまたがる山岳地帯に居住し、その地域はクルディスタンと呼ばれている。1980年のイラン・イラク戦争では、イラン政府はイラクで民族独立運動をしていたクルド人勢力を、イラク政府はイランのクルド人勢力をそれぞれ支援した。そのため、88年の停戦後、サダム・フセインはイランに協力したクルド人地区への粛清を行った。停戦発効と同時に、爆撃と化学兵器の使用を含む大規模なゲリラ掃討作戦が開始され、強制収容所で虐殺されたクルド人も含めると20万人以上が殺されたともいわれる。イラク政府は国際的な非難を浴びたが、クルド人に対する化学兵器の使用について、その後も一貫して否定している。

 「我が故郷の歌」の舞台は、イラン・イラク戦争終結後のクルディスタン。イランにいる、クルド人なら知らぬ者のない大歌手ミルザのもとに、イラクにいる別れた妻が救いを求めているという知らせが届く。ミルザは、ミュージシャンである2人の息子を無理やり連れて、行く先々でクルド人の民族音楽を演奏しながら、不穏な空気の漂うイラクへ向かう。そこで彼らが見たものとは−。

 監督は、自身もクルド人であるバフマン・ゴバディ。家族の窮状を救うために、イランとイラクの国境を越えて密輸物資を運ぼうとする少年の姿を乾いた詩情で描き出した「酔っぱらった馬の時間」がデビュー作だ。

 「戦争で歌は忘れられてしまったわ」「まさか、人々はみんな歌ってる。歌は永遠だ。人々から歌を取り上げることは出来ない」。劇中で交わされるこれらの言葉に、音楽に代表されるクルド民族の誇りと、絶えざる平和への願いが込められている。
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